2007年10月30日火曜日

溝口4号遺跡の発掘調査(10月30日)


鎌倉時代の東広島呉道路!?

 溝口4号遺跡の発掘調査も佳境を迎え、ほぼ全体像が現れてきました。
 今回は、調査区の北端で見つかった石敷き道路をご紹介します。
 写真は、石敷き道路を掘り出しているところ(上の写真)と、石敷き部分を西上から撮ったもの(下の写真)です。
 道幅は1mほどの狭いものですが、石敷きでない道が南に一直線に続いており、その幅は1.4m~1.8mありますので、全体では1間(約1.8m)の幅を意識した道だったと思われます。
 石敷きの見つかったところからは地形が北に下がっており、さらに西方向からきた流路が石敷き部分でぶつかり、北に向きを変えています。流路で道がえぐられた部分には、数多くの石が投げ込まれ、その上に平たい石が置かれていることから、道が流されないように石で舗装したものと推測できます。
 道は、掘立柱建物跡や民家の敷地と思われる平坦面の間を真っ直ぐ南に延びており、村の中を縦断する主要な道路であったと考えられます。
 道の使われていた時代は、石の間に挟まっていた土器や下の写真あるような流路の中の土鍋などから、鎌倉時代の終わり頃だったことがわかりました。
 溝口4号遺跡の調査は、東広島呉自動車道建設に伴う発掘調査です。この道が、どことどこを結ぶ道だったのか明らかにすることはできませんが、ひょっとしたら、山を越えて呉と溝口を結ぶ道だったかも知れませんね。

文化財センターからのお知らせ

 高屋町・福富町にて新たに発掘調査が始まります

 戸鼻遺跡の発掘調査を終えたばかりの福富町内にて、また、新たに発掘調査が開始いたします。
 
 遺跡は
堀城跡(ほりじょうあと)地図という中世の山城跡です。  国道375号の改良工事に伴う発掘調査で、調査期間は11月いっぱいを予定しております。
 時期を同じくして、高屋町造賀においても山城跡の発掘調査が開始される予定です。こちらの遺跡名は、外宮山城跡(げぐうやまじょうあと)地図といいます。こちらの発掘調査は、おおむね今年いっぱいを予定しております。
 なお、この調査の状況につきましては、後日このブログにて逐次ご報告いたします。どうぞお楽しみに。

2007年10月23日火曜日

安芸国分寺周辺遺跡(10月15日~19日)

ヘリコプターがやってきた!
 
 発掘調査もいよいよ大詰めを迎えました。
そんな中、左の写真にあるように、なんと今日は現場に巨大ヘリコプターが出現・・・!?

 ・・・って、実はこれラジコンヘリコプターなんです。
 発掘調査では遺跡全体を掘りあげた後、その調査範囲全体を撮影するために、このようなラジコンヘリコプター(略してラジヘリ)を利用することが多いのです。



 右の写真にありますように、ラジヘリ専門のオペレーターの方にお願いして撮影を行います。
 住宅街ゆえ、電線や道路等、気を遣うことが多い場所なのですが、熟練の操作によって無事撮影を完了することができました。
 付近の皆様方には、騒音等でご迷惑をおかけしたことと存じます。この場にてお詫び申しあげます。
 
 空中撮影も終了したことで大きなヤマ場を越えました。調査も残り僅か、どうぞ最後までよろしくお願いいたします。

2007年10月4日木曜日

戸鼻遺跡(10月1日)

中世の竪穴式住居か?

 遺跡から擂鉢(すりばち)状の大きな穴がいくつか発見されました。柱穴は見つかっていませんが、底面は平坦であり、住居状遺構と考えられます。
 上の写真は土層を観察するために、畦(あぜ)を残して発掘しているところです。土層観察の結果、何回かにわたって黒い土が堆積したことがわかりました。遺構の規模は、直径約4~5m、深さ約0.8mです。 
 下の写真は別の遺構です。こちらは土層観察用の畦を取り払ったところです。穴の底からは人頭大の自然石が出てきました。遺構の規模は直径約5m、深さ約0.8mです。
 これらの穴からは、中世に使われたと思われる素焼きの擂鉢や土鍋などの調理道具が出土しています。もしかしたらここでも、当時の人々が現代と同じように家族で食卓を囲んでいたのかも知れませんね。