2011年12月16日金曜日

山居(さんきょ)遺跡(12月16日)

山居遺跡(河内町)の発掘調査が終了しました。調査にご理解・ご協力を賜りました皆様には、心より感謝申し上げます。

 調査の成果について、ご紹介します。
 今回の調査区からは、堅穴住居跡の可能性が考えられる遺構や土坑、柱穴が見つかりました。
 また、遺構に伴うものではないのですが、堆積土中より縄文土器の破片が多数見つかりました。
 下の写真が縄文土器です。東広島市内では、縄文土器の出土例は少なく、貴重な資料です。





 今回の調査区のすぐ南(平成2年度の発掘調査)でも、縄文土器が見つかっており、河内町内には縄文時代から人々が暮らしていたようです。


 今回出土した縄文土器は、河内町にある出土文化財管理センターでご覧になれます。

2011年12月2日金曜日

うめの辺1号遺跡(12月5日)

 7月から開始した調査もようやく終了しました。今回の調査では、奈良時代から平安時代にかけての建物跡や遺物が見つかりました。特に県内2例目の出土となる青銅製のベルト飾りや陶馬など古代の貴重な資料を得ることができました。



 今回、残念ながら遺跡見学会を開催することができませんでしたが、改めて皆様に詳しくお話する機会を設けたいと考えております。もうしばらくお待ちください。



 最後に、発掘調査を行うにあたってご協力いただいた関係者の皆様に深くお礼申しあげます。

2011年11月16日水曜日

山居(さんきょ)遺跡(11月16日)

河内町中河内に所在する山居遺跡の発掘調査が始まりました。

 今回の発掘調査は、一般国道432号交通安全施設等整備事業に係る調査です。
 
 下の写真は、調査区を南から撮影したものです。
 道路の両側の部分が調査区になります。
 また、すぐそばには河内小学校があります。


 現在のところ、柱穴や溝など見つかっています。
 また、出土遺物としては須恵器や陶磁器の破片などが見つかっています。 

2011年11月15日火曜日

うめの辺遺跡(11月18日)


 今回は,遺跡から出土した遺物紹介の第2弾をお届けします。
 写真①は須恵質のやきものでできた馬です。最初に頭部が出土し、その後脚が1本と胴体が出土しました。胴体には、鞍を表現した粘土紐が貼り付けられた跡がありました。これは、陶馬(とうば・とうまとも)といって、古代の役所跡などの近くを流れる川や溝から出土することが多く、水辺で行うまつりや雨乞いに係わるものと考えられています。
             (写真①)



 陶馬は、完全な形で見つかることはなく、一部分がわざとこわされています。これは神に馬をささげる目的があるとされています。
 このまつりの願いは果たして神様に聞き入れてもらえたのでしょうか?






  
        (写真②・顔部分の拡大)
















うめの辺1号遺跡(11月14日)

 発掘調査も終盤に近づいてきました。調査では、『段状遺構』と呼ばれる建物跡が4軒見つかっています。これは斜面をL字状に削りだして平らな面をつくり、そこに住居や作業小屋などを建てるものです。斜面の下側部分は、長い年月の間に崩れて無くなっているため、その全体を知ることはできません。


 写真の段状遺構は長軸が約7m、短軸が約5mあります。 柱跡とみられる穴がいくつも重なって検出されていることから、何回も建て直しがあったと考えられます。

2011年10月25日火曜日

うめの辺遺跡(10月25日)


 今回は、出土した遺物を紹介します。
現在、遺跡からは土器や須恵器、金属製品が出土しています。
 写真①は、須恵器の坏です。底が上を向いた逆さの状態で出土しました。少々、ゆがんでいますが、ロクロや職人の指のあとがよくわかります。この須恵器が作られたのは、その形から8世紀後半ころのものと考えられます。


           (写真①)



 写真②は鉄製の刀子と考えられる金属製品です。刀子とは現代の小型の万能ナイフのようなものです。付近からは、同じような金属製品がいくつか出土しています。また、この刀子が出土した周辺には炭化物の広がりや焼け土が見られ、何らかの関連があるのではないかと考えています。



 
            (写真②)


うめの辺遺跡(10月19日)

 高屋うめの辺1号遺跡現地を会場とした近畿大学工学部の公開講座「東広島学」の講義が行なわれました。
 まず、当センターの職員が遺跡全体の説明をした後、実際の発掘作業を体験していただきました。
 
 全員に体験してもらうために、一人一人の作業時間をあまり取ることができなかったのですが、現場の雰囲気は味わっていただけたでしょうか?
 この他、講師の東広島市教育委員会文化課 妹尾課長補佐が東広島市内の遺跡から出土した弥生土器や須恵器について説明されました。今回は講義ということで、特別に土器を手に持ってその感触や重さを確かめていただきました。みなさん熱心に聞かれ、説明の後も講師の方を囲んで次々と質問が出ていました。

 今回の講義で、近畿大学のみなさんに少しでもうめの辺遺跡や発掘調査について知っていただけたのではないかと思っています。また、講義に限らず、当遺跡では見学を歓迎しています。授業の合間にぜひいらしてください。
 

 

2011年10月24日月曜日

乃美1号遺跡(10月20日)

 5月から約6ヵ月間におよぶ発掘調査が終了しました。

 限られた面積の調査ではありましたが、弥生時代の堅穴住居跡や環濠、弥生時代終末~古墳時代初頭の溝、中世の掘立柱建物跡など多くの成果を得ることができました。(下の写真は、調査後の遺跡を空から撮影したものです。)
  これから、出土した遺物の接合・復元を行ったり、調査のデータを整理したりして、調査成果をまとめていく作業に入ります。



 最後になりましたが、調査にご協力いただきました皆様に、深く御礼申し上げます。
 今後とも、発掘調査にご理解ご協力のほど宜しくお願いいたします。

乃美1号遺跡(10月12日)

 堅穴住居跡が多数見つかった調査区とは別に2か所の調査区を調査しました。
 
 環濠(かんごう)と思われる溝状の遺構や堅穴住居跡が1軒見つかりました。






 下の写真は、環濠と堅穴住居跡の写真です。一部の検出になりますが、手前から奥にかけて半円状に環濠がみつかりました。環濠の上部は削平を受けているため、実際の規模は分かりませんが、検出された面で幅は約1.3m、深さは約0.8mありました。
 堅穴住居跡は、人が作業しているところにあり、土器片が集中して見つかりました。

 もうひとつの調査区からは、掘立柱建物跡が見つかりました。土師質土器が柱穴から出土していることから、中世の建物であると思われます。

乃美1号遺跡(9月28日)

 前々回にご紹介した場所から西に延びる調査区の調査成果についてご紹介します。
 下の写真は、調査後の写真です。
 堅穴住居跡が4軒と土器が多量に出土した溝状の遺構が見つかりました。
 写真手前から堅穴住居跡が3軒並んで見つかっています。いずれも住居の約半分が調査区外のため、半分しか調査できませんでした。手前から2つは住居の周囲を廻る壁溝をもつ円形の住居です。もうひとつは、壁溝をもたない隅丸方形の住居です。


 また、4軒目の堅穴住居跡は壁溝をもたないもので、平面形はおそらく隅丸方形であったと思われます。この住居跡は、他の住居跡とは違い壁際に沿うように大きさ約1.3×0.6~0.9m、深さ約0.3~0.5mの土坑をもっていました。主柱穴は2本で、炉はなく、出土遺物から弥生時代後期の住居跡と推定されます。(下の写真)

2011年9月12日月曜日

乃美1号遺跡(9月12日)

 乃美1号遺跡の調査では、前回ご紹介した管玉の他にも管玉1つと小玉1つが別々の堅穴住居跡から見つかっています。(下の写真)
写真左から


  ガラス製小玉(直径6㎜、高さ4.5㎜、孔1.5㎜)
  碧玉製管玉(直径約3.3㎜、長さ6㎜、孔1.5㎜)(前回ご紹介したもの)
  碧玉製管玉(直径約5㎜、長さ9㎜、孔2㎜)










 これら玉類は、孔に紐を通してネックレスのように使われていたはずですが、1つの住居から1点だけ見つかるということは何を意味しているのでしょうか?

2011年9月2日金曜日

うめの辺1号遺跡・第1号古墳・第2号古墳

近畿大学工学部東広島キャンパス(東広島市高屋うめの辺)の拡張工事に

係って、 平成23年7月から高屋うめの辺遺跡の発掘調査を行っています。

近畿大学周辺では、 昭和60年(1985年) から、

東広島ニュータウン遺跡群として発掘調査が行われ、

古墳や竪穴住居跡などが見つかっています。

今回発掘調査をおこなっているうめの辺1号遺跡では、

表土を取り除いたところで、 竪穴住居跡や段状遺構など

が見つかっています。

発掘作業員の中には、近畿大学付属東広島高校を卒業して、

大学で考古学を専攻している学生が、夏休みを利用して、

実際に発掘現場を体験し、測量をしたり図面を描いたり、

遺跡の掘り下げなどをおこないました。

「高校に通っている時は、こんなに身近に遺跡があるなんて

知らなかったです。」とのことでした。





また、先日は、中国からの

留学生が発掘の体験をされ、


夏の暑い時期でしたが、

                                                                 はじめての体験を楽しんでいる様子でした。

                                     


ちょっと気にしてみると、みなさんのまわりでも発掘調査がおこなわれているかもしれません。


(目印はブルーシートかな・・・・・)

調査の詳細につきましては、随時ご報告させていただきます。                                                                      

2011年7月27日水曜日

乃美1号遺跡(7月26日)

 前回の最後にご紹介した土器がたくさん出土しているという黒色土について、調査の経過をご報告します。下の写真が、中世の生活面の調査を終え、黒色土を掘り下げていく前の状況です。この状態のときにははっきりとは分かりませんでしたが、何基かの堅穴住居跡があるのではないかということで、調査を進めていきました。
 調査を進めていくと、黒色土部分からは堅穴住居跡6基と溝1条が見つかりました。
下の写真をよく見てください。堅穴住居跡と溝が何重にも重なり合っているのがわかりますか?  ほぼ同じところに何度も住居を建て替えているということは、この土地がよほど住み良い場所だったのでしょう。
 





 今回は、何度も建て替えが行われた住居の1つである写真奥の堅穴住居跡について、ご紹介します。
 調査区には住居の約半分しかかかっていないのですが、直径約10mの規模で円形の堅穴住居跡です。    住居内からは炉と思われる炭化物層や焼土層のある土坑や多数の柱穴が検出されました。壁溝が多数あり、何度も拡幅しながら建て替えが行われたようです。

 この堅穴住居跡からは、土器などたくさんの遺物が見つかりました。また、碧玉製の管玉や小型の壺がほぼ完形の状態で見つかるなど大変興味深い住居です。(下の写真) 調査が進むにつれ、遺跡の性格が明らかになってきていますが、調査途中のため、まだ詳細の分かっていない黒色土部分があります。今後はその部分の調査を進めていき、遺跡の全容を探っていきたいと思います。

2011年6月27日月曜日

乃美1号遺跡(6月27日)


 乃美1号遺跡の発掘調査を開始して、約1カ月が経ちました。



 精査を終えて、大きく分けて2つの時代(弥生時代と中世)の遺構面があることが分かりました。




 まずは、たくさんの土坑(どこう)と柱穴(ちゅうけつ)を調査しました。これらからは、土師質土器(はじしつどき)や釘が出土したので、中世の遺構であることが分かりました。



 下の写真は、中世の遺構を調査し終えた様子です。何棟か掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が建っていたと考えられます。





 現在は、中世の遺構面の調査を終え、弥生時代の遺構(上の写真の黒い土の部分)を調査しています。  この黒色土からは、大量の弥生土器や石鏃(せきぞく)などが出土しています。また、堅穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)と思われる遺構も見つかっていますが、まだ調査途中のため、詳細が分かり次第、ご紹介いたします。

2011年5月23日月曜日

乃美1号遺跡(5月23日)

乃美1号遺跡の発掘調査が始まりました。

 5月中旬より、豊栄町乃美(のみ)でほ場整備に伴う発掘調査が始まりました。
 
 調査面積は約3000㎡で、場所は賀茂北高校のすぐ北にあたり、9月までの約5ヵ月間の予定です。
 (下の写真の右上に写っているのが、賀茂北高校です。)



 写真は、遺構を探すために地面を精査している様子です。


 精査の結果、いくつか柱穴と思われるものや土坑、溝と思われるものがみつかっています。


 それぞれの詳細については、今後調査を進めていき、徐々にご紹介していきたいと思います。

2011年2月15日火曜日

職場体験学習

今年度の市内中学生による職場体験は、高屋中学校2年生の2名です。
文化財センターの主な仕事だる、遺跡の発掘調査などを体験してもらいました。
現場作業は、古墳時代の竪穴住居跡の掘り下げや、測量を手伝ってもらいました。
また、土器の洗浄作業も体験してもらいました。
普段使わない筋肉を使ったり、根気が必要だったり・・・。
しかし今回の経験を通して、歴史や文化財のことを少しは身近に感じてもらえたでしょうか?