2009年12月11日金曜日

泥田城跡(12月14日)

 泥田城跡の発掘調査が終了しました。
 今回は、調査で見つかった遺物についてご紹介します。
 城跡の曲輪部からは、青磁・備前のすり鉢・古銭・碁石・刀子などが見つかりました。

 下の写真は、青磁の椀です。
 上の2点には、体部外側に線描きの蓮弁があり、蓮弁の形が崩れていることから、16世紀代のものと考えられます。

 下の写真は、備前焼のすり鉢です。
 内側にハケメを観察することができると思います。
 また、口縁部の形から備前焼の第Ⅳ期で16世紀前半ごろのものと考えられます。

 下の写真は、古銭です。 実物は字がつぶれていて、読みづらいのですが、拓本をとると読みやすくなりました。
 写真左の古銭には、■(上)・平(下)・通(右)・寶(左)の文字がありました。おそらく、北宋の太平通寶と思われます。
 また、写真右の古銭には、元(上)・■(右)・通(下)・寶(左)の文字があり、北宋の元祐通寶の可能性が考えられます。
 いずれも中国から渡来した銭貨もしくはそれを日本にて模鋳した銭貨で、中世の日本において流通していたものです。

 そのほか、刀子(左下の写真)や碁石(右下の写真)などが見つかりました。



 

2009年12月10日木曜日

泥田城跡(12月9日)

 前回、石の広がりとして少し触れた遺構について詳しくご紹介します。
 石を覆っていた土を取り除いている様子が下の写真です。
  刷毛や竹べらなどを使い分けて、石の輪郭をくっきり出していきました。 
 すると、長さ約3m、幅約1.5mのほぼ長方形の範囲で、深さ約0.45mの集石を確認することができました。端は面を揃えて石が積まれており、石の大きさは拳大から20cm程度でした。
 その様子が下の写真です。

 石を取り除いていくと、大きさ約5m×約2.6mの掘り込みを確認することができました。
 下の写真が石を取り除いた後の掘り込みの完掘状況です。
 掘り込み内の堆積土下部では粘土や鉄分の沈着が確認できたことから、水が溜められていたことが推測でき、溜め池であった可能性が高いと考えています。
 溜め池として使用しなくなった後に、池の南側を石で埋め立てをして、建物の基礎とした可能性があるのではないかと考えています。

2009年12月2日水曜日

御建遺跡の調査が終了しました(11月30日)

 7月から始まった遺跡の調査もようやく終了しました。             
 その結果、井戸や柱穴、溝状遺構、レンガ遺構など中世から近代にかけての遺構を検出し、多くの調査成果を得ることができました。
(上の写真は10月から11月にかけての調査地点の全体写真)
 また、須恵器や土鍋、青磁の椀や皿、木製品など、コンテナ約70箱もの遺物も出土しました。


 調査を終えてわかったことを少しご紹介します。下の写真は、桁行20m以上、梁間約5mの掘立柱建物跡です。検討の結果、厩(うまや)ではないかと考えられています。厩は、一間ごとの小さな部屋とその一方の外側に一間幅の下屋柱(げやばしら)が並び、その反対側には半間(約1m)の下屋柱が並ぶ構造が一般的です。通常は一間ごとの小さな部屋の幅は2.4mですが、御建遺跡で見つかったものは幅2mでした。さらに、厩の床下には小便溜まりがあるということですが、ここでは見つかりませんでした。厩に特徴的な遺構が確認できなかったため、断定することはできませんが、彦根城のように2m幅の厩も存在することからこの建物跡も厩と考えるのが一番可能性が高いと思われます。もし、この建物跡が厩だとすれば宿場町として知られる「四日市宿」ならではの遺構と言えるでしょう。



 
 

2009年12月1日火曜日

ありがたい遺物?(御建遺跡11月16日)


前回に続いて、出土遺物の紹介をします。井戸の中から写真(上)の石仏が出土しました。大きさは縦35cm、横24cmで、井戸を埋める際に投げ込まれたようです。
 また、同じ日に別の遺構から写真(下)の石仏が見つかりました。大きさは縦30cm、横24cmです。少し前から姿が見えていたのですが、うつぶせになっていたため、誰も石仏だとは思っていませんでした。
 石仏は顔の形は違いますが、2体とも僧形で蓮華座に座り、手は合掌しているように見えます。おそらく地蔵と考えられます。
 調査区内では、その他にも五輪塔の一部(火輪・水輪・地輪)が多数見つかっています。その中のいくつかは建物の礎石として再利用されていました。昔は、墓石もりっぱなリサイクル品だったようです。