東田遺跡の発掘調査が終了しました。
7月18日をもって、東田遺跡の発掘調査が終わりました。
遺跡周辺の方々や関係者の方のご協力により、無事調査を終えることができました。ありがとうございました。
以下、発掘調査の成果を簡単にですが、ご報告します。
調査面積は270㎡と広い調査範囲ではなかったのですが、弥生時代の竪穴住居跡が3基、古墳時代の段状遺構、平安時代の掘立柱建物跡、時期不明の土壙墓が 2基のほか、土坑や溝状遺構、多数の柱穴が見つかりました。(下の写真は、ラジコンヘリコプターによる遺跡全体の様子です。)
特に注目すべきなのは、平安時代後期の掘立柱建物が見つかったことです。調査では、建物跡の柱穴は一部しか見つかってはいませんが、柱穴の配置から阿弥陀 堂建築の遺構ではないかと考えています。今回の調査では、あまり知られていない平安時代の地方の様子をうかがうことができる良好な資料を得ることができま した。
2009年7月23日木曜日
2009年7月21日火曜日
東田遺跡(7月18日)
現地見学会を開催しました
7月18日(土)午後1時半より、東田遺跡において現地見学会を行いました。
雨が続き、天候が心配されましたが、当日は非常に良い天気のなか、見学会を開催することができました。
暑い中、参加者80人と多くの方にお越しいただき、なかには岡山から来られた方もいらっしゃいました。調査員が約1時間程説明した後、自由に遺跡内を散策していただきました。
(下の写真は、掘立柱建物跡の説明を聞いていただいている様子です。)
夏休みということもあってか、たくさんの小学生の姿も見られました。自由研究の課題にしようと熱心に説明を聞いたり、遺跡や遺物を観察している姿が、非常に微笑ましかったです。(下の写真は、その様子です。)
最後になりましたが、参加者の方々をはじめ、関係者の皆さま、誠にありがとうございました。
7月18日(土)午後1時半より、東田遺跡において現地見学会を行いました。
雨が続き、天候が心配されましたが、当日は非常に良い天気のなか、見学会を開催することができました。
暑い中、参加者80人と多くの方にお越しいただき、なかには岡山から来られた方もいらっしゃいました。調査員が約1時間程説明した後、自由に遺跡内を散策していただきました。
(下の写真は、掘立柱建物跡の説明を聞いていただいている様子です。)
夏休みということもあってか、たくさんの小学生の姿も見られました。自由研究の課題にしようと熱心に説明を聞いたり、遺跡や遺物を観察している姿が、非常に微笑ましかったです。(下の写真は、その様子です。)
最後になりましたが、参加者の方々をはじめ、関係者の皆さま、誠にありがとうございました。
2009年7月20日月曜日
東田遺跡(7月18日)
平安時代の掘立柱建物を発見!
調査区の南東部に6基の柱穴が見つかりました。柱穴は、最後列4基(下の写真中央から上に斜めに4基並んでいます。)、その前面に2基(下の写真では手前に2基並んでいます。)が検出され、中の1間が柱間が約3.2m、両端の柱間が2.4mとなっていました。このように中央が広くなる柱の配置は、一間四面の阿弥陀堂建築に見られる形式で、この建物が阿弥陀堂であった可能性を示しています。また、写真手前の柱穴より左に約1m離れた道路沿いに基壇の端を確認することができ、平安時代における高屋地域への浄土信仰の伝播や様子をうかがうことのできる貴重な資料を得ることができました。
建物跡の周辺からは、須恵器の椀、皿、坏、甕、土師器の皿、坏のほか、布目瓦の破片や鉄釘も見つかっており、11世紀ごろの建物であると考えられます。
調査区の南東部に6基の柱穴が見つかりました。柱穴は、最後列4基(下の写真中央から上に斜めに4基並んでいます。)、その前面に2基(下の写真では手前に2基並んでいます。)が検出され、中の1間が柱間が約3.2m、両端の柱間が2.4mとなっていました。このように中央が広くなる柱の配置は、一間四面の阿弥陀堂建築に見られる形式で、この建物が阿弥陀堂であった可能性を示しています。また、写真手前の柱穴より左に約1m離れた道路沿いに基壇の端を確認することができ、平安時代における高屋地域への浄土信仰の伝播や様子をうかがうことのできる貴重な資料を得ることができました。
建物跡の周辺からは、須恵器の椀、皿、坏、甕、土師器の皿、坏のほか、布目瓦の破片や鉄釘も見つかっており、11世紀ごろの建物であると考えられます。
2009年7月8日水曜日
東田遺跡(7月7日)
弥生時代の竪穴住居跡が見つかりました
調査区の南東隅から、3基の竪穴住居跡が見つかりました。いずれも後世に一部を削られていますが、その中でも、残存状態の良い竪穴住居跡についてご紹介します。
竪穴住居跡の範囲を確認後、幅50㎝の十字状のアゼを残しながら、住居跡内を掘り進めました。土器が出たら、下の写真のように竹べらで丁寧に掘り出していきます。
下の写真は、竪穴住居跡の土砂の堆積の様子を観察・記録保存するために十字にアゼを残した状態のものです。後世に削られていなければ、左の写真のように住居の掘り方が残り、住居の大きさが分かります。右の写真では、写真右側にいくにつれて、アゼの深さが浅くなり、掘り方がなくなっていっているのが分かると思います。これは、写真右側部分が後世に削ら れて、現在残っていないからです。
住居跡からは、左下の写真のような弥生土器が出土しました。
これら出土した土器から、この竪穴住居跡は、弥生後期のものだと考えています。
弥生土器の甕や壷のほかには、土玉(右下写真)が1点見つかっています。穴に紐を通して、アクセサリーとして弥生人が身につけていたのではないでしょうか。
竪穴住居跡ほぼ中央部には、焼土や炭化物が広がっている部分がありました。アゼを取り除いたところ、その広がりの近くから下の写真のような炉跡が見つかり ました。大きさは約1.0×0.8メートルで、楕円形の炉跡です。
また、住居跡内からは、たくさんの柱穴がみつかりました。柱穴は、柱を建てた痕跡で建物の上部を支えるためにある程度の深さが必要になってきます。一つ一つ掘っていくのですが、深いものだと約70㎝もあり、掘るのも一苦労です。(下の写真は、柱穴を掘っている様子です。)
下の写真は、竪穴住居跡を掘り終えた状況です。住居内を回る壁溝が二つに分かれている(写真右部分)のが確認できると思いますが、このことから建て替えが 行われたことが分かります。住居跡の大きさは、建て替え前が約6m、建て替え後が約6.9mと比較的広い住居であったようです。
《余談》ですが・・・
今日は、こんな気象現象を見ることができました。
太陽が暈を被っている様子です。日暈(ひがさ、にちうん)というようです。天気が崩れる前兆らしいです。
調査区の南東隅から、3基の竪穴住居跡が見つかりました。いずれも後世に一部を削られていますが、その中でも、残存状態の良い竪穴住居跡についてご紹介します。
竪穴住居跡の範囲を確認後、幅50㎝の十字状のアゼを残しながら、住居跡内を掘り進めました。土器が出たら、下の写真のように竹べらで丁寧に掘り出していきます。
下の写真は、竪穴住居跡の土砂の堆積の様子を観察・記録保存するために十字にアゼを残した状態のものです。後世に削られていなければ、左の写真のように住居の掘り方が残り、住居の大きさが分かります。右の写真では、写真右側にいくにつれて、アゼの深さが浅くなり、掘り方がなくなっていっているのが分かると思います。これは、写真右側部分が後世に削ら れて、現在残っていないからです。
住居跡からは、左下の写真のような弥生土器が出土しました。
これら出土した土器から、この竪穴住居跡は、弥生後期のものだと考えています。
弥生土器の甕や壷のほかには、土玉(右下写真)が1点見つかっています。穴に紐を通して、アクセサリーとして弥生人が身につけていたのではないでしょうか。
竪穴住居跡ほぼ中央部には、焼土や炭化物が広がっている部分がありました。アゼを取り除いたところ、その広がりの近くから下の写真のような炉跡が見つかり ました。大きさは約1.0×0.8メートルで、楕円形の炉跡です。
また、住居跡内からは、たくさんの柱穴がみつかりました。柱穴は、柱を建てた痕跡で建物の上部を支えるためにある程度の深さが必要になってきます。一つ一つ掘っていくのですが、深いものだと約70㎝もあり、掘るのも一苦労です。(下の写真は、柱穴を掘っている様子です。)
下の写真は、竪穴住居跡を掘り終えた状況です。住居内を回る壁溝が二つに分かれている(写真右部分)のが確認できると思いますが、このことから建て替えが 行われたことが分かります。住居跡の大きさは、建て替え前が約6m、建て替え後が約6.9mと比較的広い住居であったようです。
《余談》ですが・・・
今日は、こんな気象現象を見ることができました。
太陽が暈を被っている様子です。日暈(ひがさ、にちうん)というようです。天気が崩れる前兆らしいです。
御建遺跡(7月10日)
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