2008年11月19日水曜日
山口遺跡(11月5日)
表土剥ぎがはじまりました。
11月5日より表土剥ぎ(ひょうどはぎ)がはじまりました。
写真は重機で表土を除去しているところです。
少しずつ表土の下の遺構の輪郭が見えてきはじめました。
これがおわると人力で表土を剥いでいく作業にはいります。
新しい発見があり次第おしらせします。
黄幡第4号古墓(11月28日)
発掘調査が終わりました
2か月にわたる発掘調査を11月28日に無事終わることができました。
ここで、調査の成果をご紹介します。
調査の結果、大量に石が積まれていた盛り上がり(右上の写真)は積石塚であることが分かりました。石と石の間からは古銭や灯明皿が多くみつかったことや、積石塚のあったところがちょうど峠の乗り越し部分にあたることなどから、峠の祭祀に関係するものではないかと考えています。
さらに積石塚の下からは、地山(もともとの地面)を削って造られた道がみつかりました。この道は、利用された後に石で埋められ(右下の写真)、その上に積石塚が造られたようです。
この積石塚が造られたのは、室町時代の終わり頃と考えられます。その後、上にだんだん石が積まれていき、江戸時代から明治頃まで峠を通る人々の信仰の対象であったようです。
2か月にわたる発掘調査を11月28日に無事終わることができました。
ここで、調査の成果をご紹介します。
調査の結果、大量に石が積まれていた盛り上がり(右上の写真)は積石塚であることが分かりました。石と石の間からは古銭や灯明皿が多くみつかったことや、積石塚のあったところがちょうど峠の乗り越し部分にあたることなどから、峠の祭祀に関係するものではないかと考えています。
さらに積石塚の下からは、地山(もともとの地面)を削って造られた道がみつかりました。この道は、利用された後に石で埋められ(右下の写真)、その上に積石塚が造られたようです。
この積石塚が造られたのは、室町時代の終わり頃と考えられます。その後、上にだんだん石が積まれていき、江戸時代から明治頃まで峠を通る人々の信仰の対象であったようです。
2008年11月10日月曜日
山口遺跡(11月10日)
2008年11月8日土曜日
御建遺跡(みたていせき)の発掘調査が始まりました。
平成20年11月1日から、約2ヶ月の予定で御建遺跡の発掘調査が始まりました。
御建遺跡は、JR山陽本線西条駅の北口新設に伴う、西条駅北線街路整備と北口のロータリー建設のために事前に発掘調査を実施するものです。
今年度の発掘調査は、駅のすぐ北側の一区画とそこから西に50mほどの一区画、計500㎡ほどの調査を実施します。
この地域は、四日市宿と呼ばれた江戸時代の西条の街並みの北の端に相当し、浄土真宗教善寺や御建神社の門前に当たります。このように歴史を感じさせる地域ではありますが、西条駅のすぐ北側であるため、同時に市街化も大きく進んだ地域となっています。
11月は、西側の区画から調査を始めました。宅地化のため、非常に厚い盛土に覆われ、かつての地形が大きく改変されているようですが、厚い盛土の下から、溝や柱穴などの遺構が徐々に姿を現しつつあります。
小規模な調査ではありますが、今後の展開を楽しみにしていてください。
(写真は西側の調査区を北から撮影したもの)
2008年11月7日金曜日
溝口4号遺跡の調査が終わりました その1
5ヶ月に及んだ溝口4号遺跡の発掘調査ですが、10月31日に無事終了することができました。
最後に、溝口4号遺跡の発掘調査成果についてご紹介しておきたいと思います。
溝口4号遺跡は、主に、弥生時代中期(約2000年前)の環濠集落跡と鎌倉時代(約700年前)の溝に囲まれた集落跡からなる遺跡です。
環濠集落については、昨年平成19年度の調査で、幅1~3m、深さ1m余りの環濠と幅30mほどの広場状の空白地帯、そして、掘立柱建物跡群が見つかっています。
今年度の調査では、環濠集落の中心に近い部分を調査しています。見つかったのは竪穴住居跡2棟のみですが、1棟は、直径約6mの大型の建物跡でした。出土 遺物はあまり多くありませんでしたが、鉢や甕、高杯(たかつき)などの土器や石で作られた斧や矢尻などが見つかりました。
下の写真の中央やや上方に目玉のように丸く見えるのが竪穴住居跡です。
今年度の調査区からは、掘立柱建物跡はまったく見つかりませんでした。
以上のような調査結果から、溝口4号遺跡の環濠集落は、おおよそ次のような構造だったといえそうです。
集落の外周には、環濠がめぐらされ、所によっては2重になっていました。環濠のすぐ内側には帯状に広場が作られ、見通しが効くとともに、戦争の時には兵士 が走り回るのに都合が良いようになっていました。その内側には掘立柱建物が何棟も建てられています。倉庫などに使われていたのでしょうか。居住空間はその内側です。竪 穴住居がある程度の間隔をあけて配置されていました。
想像も含めてですが、以上のような景観がこの遺跡の2000年前の姿だったのではないでしょうか。
高屋地区では、これまで数多くの弥生時代の集落跡が見つかっていますが、環濠集落が見つかったのは初めてのことです。見晴らしがよく、やや小高い溝口4号遺跡の環濠集落は、当時の高屋地区の中心だったのかも知れませんね。
(写真上:19年度調査弥生時代環濠跡、写真中:20年度調査弥生時代竪穴住居跡、写真下:20年度調査区)
溝口4号遺跡の見学会
10月19日(日)の午後1時30分から、溝口4号遺跡の見学会を開催しました。
事前のお知らせが十分ではなかったにもかかわらず、120人余りの方々においでいただき、遺跡現地で、遠く鎌倉時代の溝口に思いを馳せていただきました。
中には、午後は用があるからと、朝から来られる方が何人もいらっしゃいました。現地の説明は出来ませんでしたが、その方々も出土遺物を見たり、遺跡内を散策されたりと、思い思いに楽しんでおられるようでした。
1時半からの見学会では、文化財センター所長のあいさつに始まり、その後1時間ほどの予定で現地の遺構を見て回る予定でしたが、少々時間をオーバーして、約1時間半、最後まで熱心に主な遺構とその説明をお聞きいただきました。
終了後も、多くの質問が寄せられ、皆さんの熱心な様子に、主催者側も大いに安堵するとともに、今後も充実した見学会を開催したいという思いを新たにしました。
溝口4号遺跡の見学会の様子は、10月20日の中国新聞朝刊にも掲載され、見学会に来られなかった方々にも成果の一端をお知らせすることができました。
(写真上:出土品を見る見学者、 写真下:大溝の説明を聞く見学者)
事前のお知らせが十分ではなかったにもかかわらず、120人余りの方々においでいただき、遺跡現地で、遠く鎌倉時代の溝口に思いを馳せていただきました。
中には、午後は用があるからと、朝から来られる方が何人もいらっしゃいました。現地の説明は出来ませんでしたが、その方々も出土遺物を見たり、遺跡内を散策されたりと、思い思いに楽しんでおられるようでした。
1時半からの見学会では、文化財センター所長のあいさつに始まり、その後1時間ほどの予定で現地の遺構を見て回る予定でしたが、少々時間をオーバーして、約1時間半、最後まで熱心に主な遺構とその説明をお聞きいただきました。
終了後も、多くの質問が寄せられ、皆さんの熱心な様子に、主催者側も大いに安堵するとともに、今後も充実した見学会を開催したいという思いを新たにしました。
溝口4号遺跡の見学会の様子は、10月20日の中国新聞朝刊にも掲載され、見学会に来られなかった方々にも成果の一端をお知らせすることができました。
(写真上:出土品を見る見学者、 写真下:大溝の説明を聞く見学者)
2008年11月6日木曜日
黄幡第4号遺跡(11月7日)
**中間報告**
調査を開始して、1か月が経過しました。
ここで、現在までの調査状況を報告します。
前回ご紹介したように、石積みの実測(図面を描く作業)はひと苦労でしたが、無事終わりました。
実測後は、石をはずしていく作業です。
南北と東西にそれぞれ約1m幅のあぜ(断面をみるためもの)を残し、石を除去していきました。すると、厚いところで約1mも石が積まれていることが分かりました。
(その様子が、右上の写真です。)
さらに除去作業を進めていくと、石積みの下から、別の遺構が見つかりました。
(右下写真の手前の遺構です。)
その遺構は、深さ約1mの溝状の掘り込みに石が埋まっていました。
溝だったのか道だったのか今のところ、性格については分かっていません。
石積みは、これを埋めて、その上に造られたようです。
今後は、あぜを取り除く作業と掘り込み中の石を取り除く作業を行ない、さらに詳しく調査を進めていきます。
調査を開始して、1か月が経過しました。
ここで、現在までの調査状況を報告します。
前回ご紹介したように、石積みの実測(図面を描く作業)はひと苦労でしたが、無事終わりました。
実測後は、石をはずしていく作業です。
南北と東西にそれぞれ約1m幅のあぜ(断面をみるためもの)を残し、石を除去していきました。すると、厚いところで約1mも石が積まれていることが分かりました。
(その様子が、右上の写真です。)
さらに除去作業を進めていくと、石積みの下から、別の遺構が見つかりました。
(右下写真の手前の遺構です。)
その遺構は、深さ約1mの溝状の掘り込みに石が埋まっていました。
溝だったのか道だったのか今のところ、性格については分かっていません。
石積みは、これを埋めて、その上に造られたようです。
今後は、あぜを取り除く作業と掘り込み中の石を取り除く作業を行ない、さらに詳しく調査を進めていきます。
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