2010年10月14日木曜日

乃美3号遺跡(9月30日)

 1ヶ月半にわたる乃美3号遺跡の発掘調査を、無事終えることができました。
 調査にご理解、ご協力いただきました方々に、厚く御礼申し上げます。

 調査の概要について、ご紹介します。
 下の写真は、乃美3号遺跡の様子をラジコンヘリで空から撮影したものです。
 乃美3号遺跡からは、以前にご報告した竪穴住居跡や土器が出土した土坑以外にも、たくさんの遺構がみつかりました。
 建物跡は、堅穴住居跡3基、掘立柱建物跡2棟、その他にもたくさん柱穴があるので、何棟か建物が建っていたと思われます(下の写真)。それ以外には、溝や石列、炉などもみつかりました。
 乃美3号遺跡の時期については、土器の埋まっていた土坑(古墳時代)の検出状況・建物跡の軸の方向・出土遺物の様子などから3つの時期に分けることができそうです。出土した遺物は、弥生土器から近現代の陶磁器やガラス瓶など、多種多様です。出土した遺物の多くは、古墳時代と中世のものですが、それぞれの建物跡などの遺構の時期については、現在のところ特定できていません。今後、発掘調査で得られた資料の整理作業を行い、さらに詳しく調べていきます。

2010年10月12日火曜日

乃美3号遺跡(9月30日)

 乃美3号遺跡の調査成果について、今回は、集石遺構をご紹介します。
 
 直径約60cmの円形に組まれた石が、赤く焼けている状態で見つかりました。後世に上の部分を削られているため、上部構造は分かりませんが、”火”を使った施設に間違いはないでしょう。食べ物を焼いたり、煮たりするときに使われた炉の可能性もあります。時期については、遺物がないため分かりませんでした。

2010年9月27日月曜日

乃美3号遺跡(9月21日)

 今年の夏は、雨もなく非常に暑い日が続き、厳しい環境の下での現場でしたが、ようやく涼しい秋風が吹くようになりました。調査も終盤にかかり、 多くの成果を得ることができました。

 乃美3号遺跡では、4基の土坑から、ほぼ完全な状態で土師器(はじき)が見つかりました。

・高坏(たかつき)

 坏部のみで、脚部は無くなった状態で見つかりました。

・甕(かめ)や壺(つぼ)
 いずれも、古墳時代の土器です。
 この地で、古墳時代に人々が生活を営んでいたことを現代に伝えてくれています。

乃美3号遺跡(9月21日)

 下の写真は、乃美3号遺跡で見つかった竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)です。 堅穴住居跡の上部が、後世に削られてしまっているため、ほぼ半分のプランしか確認できませんでした。

 大きさは、2.5×(2.8)mで、周囲をめぐる壁溝と2つの柱穴が見つかりました。

 堅穴住居跡からは、土器の破片が見つかっていますが、小片であるため、時代を特定することができませんでした。建物跡の時代については、周辺の遺構との関連から、おそらく古墳時代の建物跡ではないかと考えています。

 大きさが小規模であるため、住居というよりは、仮住まいもしくは作業場といった性格の建物だと思われます。

2010年9月3日金曜日

乃美3・4号遺跡(9月1日)

 乃美4号遺跡の調査に続き、乃美3号遺跡の調査を現在行っています。
 今日は、近くの賀茂北高校の2年生が遺跡に発掘体験にやってきました。
 9月とは思えない35度という猛暑のなかですが・・・ 土器を壊さないよう掘っている真剣な顔、土器を見つけて喜んでいる顔、暑さでバテバテの顔と様々でしたが、発掘調査の仕事の大変さや面白さをそれぞれに感じてくれたのではないでしょうか。

乃美3・4号遺跡(8月23日)

 乃美4号遺跡の発掘調査が終わりました。
 調査成果をご報告します。

 乃美4号遺跡では、下の写真のようにたくさんの小さな穴(柱穴:ちゅうけつ、はしらあな)と大きな穴(貯蔵穴:ちょぞうけつ)が見つかりました。
 貯蔵穴は上部が削られた状態でみつかっていますが、柱穴は十分な深さを持っています。貯蔵穴が機能していたときの地面を削って整地したのちに掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)を建てて、生活していたのではないでしょうか。

 掘立柱建物跡も貯蔵穴も、正確な時代は断定できませんでした。遺跡からは、古墳時代から江戸時代後期にかけての遺物が出土していることから、建物を建て替えたりなどしながら、古墳時代からこの土地で人々が生活を営んでいたことが推測されます。

 調査が終わった乃美4号遺跡は、今・・・
 遺跡は跡形も無くなってしまいました。新たに大きな田に生まれ変わるための工事が進んでいます。

2010年8月26日木曜日

御建遺跡(8月27日)

 7月から始まった遺跡の調査も無事、終了することができました。
調査では、井戸跡や柱穴のほか、ため池の跡が見つかりました。ため池の跡は調査することが少なく珍しい例といえます。 池からは幅約2mの溝が東へのびていました。検討の結果、昨年の調査区で見つかった溝の続きであることがわかりました。水は東から池に向かって流れていたようです。
 調査によって明らかになったのは、ため池の南東隅の部分です。見つかった部分は、幅が東西3.5m、南北2.5mの範囲で、深さは約1.5mでした。
 土手からは、当時生えていた草の痕跡や池に生息していたと思われる虫の死骸などが見つかりました。その他には、備前焼の甕や土鍋、青磁椀が出土したことから、池は16世紀半ばごろに埋め立てられたと考えられます。


(虫の死体)

 また、木の葉や実も見つかりました。このような動植物の遺体からは、戦国時代の御建地域の自然が思い起こされます。


(池から出土した木の葉)
 







 
 


 
 
 

 
 

 

2010年8月25日水曜日

御建遺跡(8月26日)

 御建遺跡が紹介された番組は見ていただけましたか?まわりからは担当者の演技もなかなか好評のようでした。


 今回の調査では、たくさんの石製品が見つかりました。遺跡全体では50点以上になりました。なかでも、一番多かったのは、以前ブログでお話しした石組みの井戸に使われていた五輪塔です。そのうち、丸い形の水輪が最も多くて20個、次に多かったのが空・風輪で13個でした。

 作業員さんたちの間で一番人気のあったお地蔵さま(中央)

 またその他には、9体のお地蔵さまが見つかりました。お地蔵さまは、全て坊主頭で手は合掌しています。一体一体の顔や体の彫り方がバラバラで、石工職人は一人ではないのかもしれません。そして、きちんと形が整えられたものがほとんどなく、つくりかけてやめてしまったようなものばかりでした。
 以前、石材はどこから持ってきたのか2つの説があるとお話ししましたが、これで、近所で失敗作をもらった説が少しリードしたような気がします。


御建遺跡(8月23日)

 残暑お見舞い申し上げます。毎日、経験したことのないような熱さが続いていますが、みなさんは大丈夫ですか?
 今回は、井戸の中から出土したものについて書こうと思います。
(写真1)
 写真1は、羽子板です。長さは、約22cmで途中から折れています。羽根つきは中国から室町時代に日本へ伝わったとされています。羽根つきで使う玉が飛ぶ様子が蚊を食べるトンボに似ているので、子供が蚊にさされないおまじないとしてはじめられたとも言われています。
(写真2)
 写真2は折敷(おしき)の縁です。折敷とは、食器などをのせる時に使った四角いお盆のことです。赤い漆の上に真中には萩の花(写真3)、その左右には竹が黒漆で描かれ、その上に透明な漆が塗られています。
(写真3)※萩の花部分
(写真4)
 写真4は、枡です。大きさは約8cm×8cmの正方形で高さは3cmほどです。現在の枡からするとやや小さめですが、大きさからみて一合枡のようです。外側から側面を2か所、底を4か所、竹の釘で留めています。
 
 この他には、はしや漆椀、魚の骨などが、見つかりました。これらは、井戸の周囲で洗いものをしていて落としてしまったり、ゴミになったものを投げ込んだものと思われます。



2010年8月5日木曜日

御建遺跡(8月4日)

 今日、ホームテレビの「レッツ! 東広島」という番組の取材を受けました。遺跡の簡単な紹介をして、レポーターの方には発掘の雰囲気を味わってもらいました。



 放送は8月25日午後6時55分からの予定だそうです。みなさん、ぜひご覧ください。担当者の名演技?にも注目です。


2010年7月28日水曜日

乃美3・4号遺跡(7月28日)

雨、すごかったですねぇ。

乃美地区でも、川が氾濫し、田や道路が冠水していました。あちこちで災害も起きており、被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。

調査区全体が水没し、遺構が部分的に崩れるなどしましたが、最小限の影響で済みました。
昔の人は、災害に遭いにくい場所を選んで生活していたのでしょうか?
こんなところにも先人の知恵が活きているようで、つくづく感心させられます。

2010年7月26日月曜日

御建遺跡(7月20日)


 やっと梅雨明けしました!梅雨が明けたら猛暑が続き、現場でも熱中症にならないように、こまめに水分と休息を取るようにしています。みなさんも体調には気をつけてください。
(写真1)
 さて、調査では、直径約2m、深さ約3.3mの石組みの井戸が見つかりました。(写真1)この井戸は、いろいろな大きさの石を使って、積み上げられています。
(写真2)
 矢印で示した丸い石がわかりますか?(写真2)これは五輪塔(ごりんとう)と呼ばれる供養塔の一部です。五輪塔はインドが発祥といわれ、日本では平安時代の終わりごろから多くみられます。材質は石であることが多く、下の図のように、5個の形を組み合わせてつくられています。御建遺跡では上の空輪(くうりん)と風輪(ふうりん)を1つの石でつくった空・風輪(くう・ふうりん)と呼ばれるものが多く見つかっています。
『図録 歴史考古学入門辞典』より

 この井戸に使われているのはほとんどが上から一番目の空・風輪と三番目の水輪です。丸い形は積み上げていくのに都合がよかったのかもしれません。
 では、この石はどこから持ってきたのでしょう?今のところ、2つの意見があります。
 ①近くのお寺から参る人のいなくなった墓を壊して持ち出した。
 ②近所の石屋から失敗作をもらった。

 ①は遺跡のすぐ近くには「旦過寺跡(たんがじあと)」の伝承地があります。多少、罰あたりかもしれませんが可能性はあると思います。②は見つかった五輪塔の中に、「作っている途中に割れたのでは?」と思われるものがいくつかあるのでこれも可能性があります。
 
 みなさんはどのように思われますか?



 


 

御建(みたて)遺跡(7月12日)


 去年に続いて、今年度も御建遺跡の調査が始まりました。
今回は、去年の調査区のすぐ西隣にある約150㎡の範囲を調査します。去年は、大きな溝のような遺構や日本酒の醸造に関連があると考えられるレンガ遺構など、中世から近代までの幅広い時代の遺構や遺物が見つかっています。
今回はいったいどんなものが見つかるのか?とても楽しみにしています。
 

2010年6月18日金曜日

乃美3・4号遺跡(6月18日)

 6月から豊栄町乃美(のみ)で、乃美3・4号遺跡の発掘調査が始まりました。調査は、経営体育成基盤整備事業に伴うもので、9月までの約4ヵ月間の予定です。
 乃美遺跡は、山々に囲まれ、周辺には水田が広がるのどかな場所にあります。(下の写真は、乃美4号遺跡を遠くから望んだものです。調査区は、写真中央奥に見える住宅の前あたりになります。)
 まずは、乃美4号遺跡の調査から取り掛かりました。地面を削って遺構を探す作業にいよいよ入っていきます。
 どのような遺構や遺物が見つかるのか、調査の成果を随一ご紹介していきたいと思いますので、ご期待ください。

【用語解説】
 遺跡:人間が残した痕跡。遺構(動かすことのできないもの。住居跡など)と遺物(動かすことのできるもの。石器や土器など)に大きく分けることができる。




 
 

2010年6月4日金曜日

中組遺跡(5月31日)

 4月から始めた発掘調査も無事、終了することができました。今回は期間の都合上、現地説明会を行なうことができませんでした。ここで調査でわかったことをお伝えしたいと思います。
 まずはじめに、どのように土が盛られているのかを観察するために50㎝幅に塚を掘り残して、全体を掘り下げていきました。(写真1)

(写真1)
この断面の様子から、
 土は、つき固めるなどの崩れない工夫はされておらず、積み上げただけであること
 塚の半分の高さから穴を掘った形跡があること
 ②の発見によって、塚はもともと現在の半分の高さであったこと
 塚の周囲には溝状の落ち込みがあること
がわかりました。
 そして、さらに掘り進めていくと・・・

(写真2)
 このような姿になりました(写真2)。塚のもともとの大きさは直径が13mで、今より一回り大きなものだったようです。そして周囲には幅2m、深さ40㎝の溝がめぐらされていました。
 この塚の真ん中には十字のような浅い穴も見つかりました。これは、の塚の半分の高さから掘られた穴の底部分になります。上から見えた時は幅1m以上の大きな穴であったのに、底の方では幅が30㎝ほどの十字の細い溝のようになっていて、全く形が違っていました。また、穴の底はでこぼこしていて、何かを埋めるために掘ったものではなさそうです。これらから、この穴は盗掘の跡ではないかと考えています。
 昔は、古墳や墓の中のお供えを盗んで売り払うということがたくさん行なわれていました。中組遺跡にある塚も、その形や大きさから泥棒が古墳と間違えたのではないでしょうか?しかも集落から離れていて人目につきにくいので泥棒が狙ったのでしょう。しかし、真ん中から大きく穴を掘り始めたものの、掘っても掘ってもお宝にはたどり着かず、今度は、外へ向かって穴を掘ってみたけれど、結局何も出てこなかったのであきらめたのではないでしょうか。
 調査の結果から、この塚がつくられたのは江戸時代よりも以前であることがわかりました。神社の下を掘るような罰当たりなことを昔の人がするとは思えませんので、泥棒が穴を掘った当時は神社は建てられていなかったのでしょう。そしてその後、二度と泥棒が入らないように神社を建てたのかもしれません。

2010年5月19日水曜日

中組遺跡(5月12日)




 遺跡の調査も折り返し地点になりました。遺跡からは、毎日いろいろな遺物が出土しています。お賽銭や椀、皿の破片、土器などです。上の写真は祠の石の間から出土した寛永通宝です。
 下の写真は、「かわらけ」と呼ばれる素焼きの小皿です。その形から16世紀後半ごろのものと考えられます。かわらけは儀式の時に使われることが多く、塚を築く時に何らかのおまじないやお祓い(おはらい)、お供えなどが行なわれたことを示すのかもしれません。

2010年5月10日月曜日

中組遺跡(4月23日)


 4月19日から西条町御薗宇で、中組(なかぐみ)遺跡の発掘調査が始まりました。フジグランの敷地造成事業に伴うものです。調査期間は約1ヵ月半で5月末ごろまで行なう予定です。
 この地域は、江戸時代に新田開発が行なわれ、『十文字』という地名がつけられました。今回はその当時、建立されたのではないかと考えられている神社跡の調査を行います。現在は建物が建っていた基壇部分(写真下)と塚が残されています。建物は、同じ西条町御薗宇の宮山八幡神社の境内に移され、沖野神社として祀られています。
 フジグランのすぐ近くで調査をしています。皆さん、買い物がてら、ぜひご覧になってください。
 

 

2010年2月25日木曜日

職場体験学習

2/15~2/19の間、当文化財センターでは、職場体験学習を実施し、東広島市立高屋中学校の2年生4名を受け入れました。

 写真は、上から蔵書の梱包をしている場面、遺物を各遺構ごとに選別している場面です。

 2週間前の記事でもお伝えしましたが、現在当センターでは移転作業の真最中です。人手はいくらでも欲しいくらいに忙しく、今回職場体験で来てくれた生徒さん達には、色々な手伝いをお願いしとても助かりました。

 移転作業はようやく半ばを過ぎたあたりです。来月末には作業も一段落し、新年度からは新しい事務所での業務が開始されます。今回職場体験に来てくれた4人の生徒さんも、移転が完了したらまた見学に来てもらえればと思います。

2010年2月8日月曜日

職場体験学習

 2/1~2/5の間、当文化財センターでは、職場体験学習を実施し、東広島市立西条中学校の2年生1名を受け入れました。

 写真は、上から土器を洗浄している場面、蔵書を梱包している場面です。

 今回の職場体験では、現地での発掘調査が終了している事、当文化財センターの移転が控えている事から、室内での作業、特に移転用の梱包作業に従事してもらいました。

 寒い中黙々と作業をしてもらい、とても助かりましたが、埋蔵文化財の職場体験とは趣旨が異なる作業内容になってしまいました。

 今回の経験を、今後の人生に活かしてもらえれば幸いです。