2007年12月5日水曜日
外宮山城跡の発掘調査(12月5日)
細かい作業です・・・
右上の写真をご覧ください。
発掘作業をしている人のまわりから、たくさんの石が出てきているのがお分かりになるでしょうか? この後さらに石の輪郭がはっきり見えるように、まわりの土を竹べらや移植ごてなどを使って丁寧に取り除いていきます。しかし、取り過ぎると石が動いてしまうので、作業は少しずつ慎重に行われます。 寒い時期におけるこの作業は特に大変です。最近は、冷たい北風とともに小雨が降ったりで、じっとしていると体が冷え切ってしまいます。根気強さとともに寒さとも戦いです。 そして、丁寧に土を取り除くと右下の写真のような状況になりました。出てきた石群は、約3m×6mの範囲に広がっていましたが、何のために敷かれたものかは今のところはっきりしません。素焼きの鍋や擂鉢などが出土していて、14世紀後半ぐらいに造られたことがわかっています。 当初は、もう少し広い範囲に石が広がっていたと考えられますが、現在の道路によって削り取られて失われたものと思われます。
2007年12月1日土曜日
堀城跡(11月30日)
堀城跡の調査終了!!
堀城跡の調査は11月1日に始まり、11月27日で終了しました。今回の調査は山城跡西側の堀の一部を対象に行いました。(上の写真は西側尾根から撮影したものです。手前が調査部分、背後が山城本体です。)
調査の結果、尾根をカットした堀の斜面を検出したほか、その西側で堀に並行するように南北方向に延びる溝状遺構やピット、性格不明の集石遺構などが見つかりました。(下の写真は山城本体側から撮影した堀の斜面です。)遺物は、中世の土師質土器(皿・鍋)や陶器(擂鉢)の破片や、鉄滓などが出土しました。
これらのことから、山城の堀の外側でも同時期の遺構が広がっている可能性が考えられます。また、鉄滓の出土から周辺に鍛治関連などの遺構の存在も想定されます。このように今回の調査は1ヶ月足らずの短期間でしたが、城の時期や様子を窺う貴重な資料が得られました。
2007年11月22日木曜日
溝口4号遺跡(11月22日)
溝口4号遺跡の見学会を開催します。
平成19年12月2日(日) 13:30から14:30の予定で溝口4号遺跡の発掘調査見学会を開催します。詳細については、最新情報をご覧ください。
見どころは、弥生時代中期頃(約2000年前)の環濠集落の濠跡です。幅2~3mほどのV字の溝が長さ約40mにわたって見つかりました。北寄り3分の1ぐらいからは、溝の底が二股に分かれており、二重の環濠になっていたと推測されます。
濠跡から、約20mほどの間を空けて、同時代の掘立柱建物跡や土坑が見つかっています。写真は掘立柱建物跡に柱と屋根を乗せて復元してみたものです。見学会当日も復元しますので、楽しみにしてください。
今年は雨の少ない年でしたが、通り雨は多く降りました。写真のような虹もよく見ることができます。
見学会当日は、虹ではなく、太陽が輝く暖かい日になるといいですね。
平成19年12月2日(日) 13:30から14:30の予定で溝口4号遺跡の発掘調査見学会を開催します。詳細については、最新情報をご覧ください。
見どころは、弥生時代中期頃(約2000年前)の環濠集落の濠跡です。幅2~3mほどのV字の溝が長さ約40mにわたって見つかりました。北寄り3分の1ぐらいからは、溝の底が二股に分かれており、二重の環濠になっていたと推測されます。
濠跡から、約20mほどの間を空けて、同時代の掘立柱建物跡や土坑が見つかっています。写真は掘立柱建物跡に柱と屋根を乗せて復元してみたものです。見学会当日も復元しますので、楽しみにしてください。
今年は雨の少ない年でしたが、通り雨は多く降りました。写真のような虹もよく見ることができます。
見学会当日は、虹ではなく、太陽が輝く暖かい日になるといいですね。
2007年11月15日木曜日
堀城跡(11月15日)
2007年11月8日木曜日
外宮山城跡(げぐうやまじょうあと)の調査開始(11月7日)
11月7日から外宮山城跡の発掘調査が始まりました。調査期間は12月末までを予定しています。外宮山城は、東広島市高屋町造賀に位置する中世の城跡です。
現在のところ、本丸にあたる主郭(しゅかく)や、その周囲の二の丸、三の丸にあたる副郭(ふくかく)、堀切が確認されています。今回、造賀東22号線の道路改良工事に伴い、東側の副郭と堀切の一部を調査することになりました。
右の写真のブルーシートがかかっている場所とその右側奥の平坦な部分が今回の調査範囲になります。今は表土を取り除いて中世の人達が生活していた痕跡(遺構と呼ばれる柱や溝、井戸などの跡)が見つかる面の近くまで掘り下げたところです。これから少しずつ掘り下げて遺構を探す作業を行います。
調査は始まったばかりで詳しいことはまだわかりませんが、これから徐々にお知らせしていきたいと思います。周辺の皆様にはご迷惑をおかけしますが、ご協力をお願いいたします。
2007年11月5日月曜日
堀城跡(11月2日)
堀城跡って?
堀城跡は東広島市福富町久芳(くば)に位置する城跡です。
この遺跡は、盆地状の地形に流れる沼田川上流水系によって形成された、丘陵の先端に位置します。上の写真は遺跡を南から撮影したものです。
周囲には山城跡が多く存在しています。近年では、(財)広島県埋蔵文化財調査センターにより福原城跡の発掘調査が行われ、14世紀後半から16世紀後半にかけて城が存在したことがわかっています。
堀城跡表土除去開始!
堀城跡では、11月2日から表土を除去する作業がはじまりました。今回は、城跡の西側をめぐる堀の一部を調査します。
堀城跡は東広島市福富町久芳(くば)に位置する城跡です。
この遺跡は、盆地状の地形に流れる沼田川上流水系によって形成された、丘陵の先端に位置します。上の写真は遺跡を南から撮影したものです。
周囲には山城跡が多く存在しています。近年では、(財)広島県埋蔵文化財調査センターにより福原城跡の発掘調査が行われ、14世紀後半から16世紀後半にかけて城が存在したことがわかっています。
堀城跡表土除去開始!
堀城跡では、11月2日から表土を除去する作業がはじまりました。今回は、城跡の西側をめぐる堀の一部を調査します。
下の写真は遺構の上を覆っていた畑の土を重機で取り除いているところです。
調査期間は1ヶ月の予定です。 何か新しい発見がありましたら、報告したいと思います。
安芸国分寺周辺遺跡(11月5日)
発掘調査終了記念号
都市計画道路吉行泉線街路整備事業に伴い、5ヵ月間に渡り実施して参りました安芸国分寺周辺遺跡の発掘調査も、先日10月末日を持ちまして終了いたしました。
今回は、5ヶ月間の調査の模様をダイジェストでお送りします。
6月 発掘調査開始
第1調査区から調査を始めました。
調査区の東際(右写真の左側)昨年度の第1・2調査区で発見されていた溝状遺構を今年度も検出しました。
7月 溝状遺構の調査
第1調査区東際(右写真中央)で検出した溝状遺構・SD1(仮)の調査を本格的に開始しました。
昨年度の調査と同様、溝幅の全体像を把握することは、既存の道路下にかかるため困難でした。
また、溝の痕跡は、この第1調査区内において終了するということがわかった。
右の写真は、SD1(仮)の遺物出土状況を真上から撮影したものです。
須恵器の杯身や土師器の甕片などが出土しています。
この写真は、先程と同じSD1(仮)の遺物出土状況を西側から撮影した状況です。手前にみえている赤い塊は、焼土と考えられます。
SD1(仮)を完掘した状況です。
既存の吉行泉線と並行であることがわかります。
ところで、道路を挟み、右写真の角にわずかに見える道路際の植栽がお分かりになるでしょうか。
この部分を含み、現在公園となっている地点では、以前、当文化財センターが実施した史跡安芸国分寺跡の発掘調査において、築地塀と雨落ち溝の遺構を発見しています。
やはり、このたびの溝と並行に沿っていることから、その関連が伺えますが、これから発掘調査報告書を製作する段階で、研究を深めたいと考えております。
次の写真は、実測という測量作業の模様です。
真ん中にあります隅丸長方形状の遺構の形を書いている様子です。
原寸大で書くと、紙がいくつあっても足りませんので、遺構の平面図を書く場合、通常であれば、専用の方眼紙に当センターでは20分の1で書くことが多いです。
平面図を書いた後は、その書いた遺構や地面の標高を書き記しておく必要があります。
その為の作業が、右写真のレベリングです。
実際どんな風に作業するかといいますと、手前の人が、レベルという測量機器で奥の人が持つスタッフという言わばものさしに記されている目盛りを読むという方法で、標高を図面に記入していきます。
ただし、記入した標高は、レベルの目線でみた目盛りの数値なので、そのままでは活用できません。
実際の標高を復元する際には、このレベルの目線の数値から計測した各標高を引いて、数値を割り出す必要があるのです。
7月末 第1調査区の調査終了
右写真は、第1調査区空中写真撮影の模様です。
この頃すでに猛暑がやってきておりました。
しかし、この後もっと厳しい暑さがやって来ようとは・・・
8月 第2調査区の調査はじまる。
調査の舞台を南側に移し、第2調査区の調査が開始しました。
9月 時にはこんなことも・・・。
昨年は非常に多かった局地的な激しい雷雨。
今年は、暑すぎて大変でしたが、雨が降らないから調査としては助かるなと思っておりました。
しかし、時にはそんな順調な調査を不意の夕立が襲うこともありました。
右写真は、排水が間に合わず、調査区の半分程度が水没した第2調査区の状況です。
夕立の後は、うその様に晴れあがっていました。
これは、掘立柱建物になるかなと考えている柱穴列群です。仮にSB1と名づけています。
推定箇所も含め考えると、2間×5間の長方形の建物となりそうです。いくつかの柱穴には、柱材が残存していました。
時期は、検討中ですが、近世の磁器などが出土していることから近世後半あるいは近代にかかるような建物であったのかと想定しております。
10月 ラストスパート!
いよいよ、最後の1ヶ月。調査も仕上げ段階です。
さて、そんな中、興味深い柱穴が発見されました。
右写真は、掘立柱建物と考えられるSB2(仮)の柱穴の一つ(P1)です。
上記のような柱穴は、右写真のようにもう1基発見されました。SB2(仮)のもう一つの柱穴(P2)です。
なお、こちらは南側に位置する柱穴になります。
穴の中央にもう一つ浅く小さい穴があるのがお分かりでしょうか?
ここには、柱材の痕跡が残っていました。
右は、SB2(仮)のP1とP2という2つの柱穴の中心間距離を示した写真です。おおよそですが、約3.3mあることがわかりました。
この遺構は、古代の柱穴である可能性もうかがえるのですが、残念ながら特定に必要な遺物が1点も出土しませんでした。
ということで、その特定には、さらに検討が必要であると考えております。
10月末 調査終了
そんな訳で、5ヶ月の調査も終了となりました。
右写真は、第2調査区で出土した遺物です。
須恵器や土師器といった古代の土器類、近世~近代の陶磁器類など出土しています。
第1調査区の成果を合わせると、多くの遺物が出土しました。 これから、発掘調査報告書を作成していくにあたり、この成果をまとめ、地域の歴史を解き明かす資料としてまとめていこうと考えております。
では、 安芸国分寺周辺遺跡のブログはこれにて終了いたします。
長らくのお付き合い誠にありがとうございました。
おしまい
都市計画道路吉行泉線街路整備事業に伴い、5ヵ月間に渡り実施して参りました安芸国分寺周辺遺跡の発掘調査も、先日10月末日を持ちまして終了いたしました。
今回は、5ヶ月間の調査の模様をダイジェストでお送りします。
6月 発掘調査開始
第1調査区から調査を始めました。
調査区の東際(右写真の左側)昨年度の第1・2調査区で発見されていた溝状遺構を今年度も検出しました。
7月 溝状遺構の調査
第1調査区東際(右写真中央)で検出した溝状遺構・SD1(仮)の調査を本格的に開始しました。
昨年度の調査と同様、溝幅の全体像を把握することは、既存の道路下にかかるため困難でした。
また、溝の痕跡は、この第1調査区内において終了するということがわかった。
右の写真は、SD1(仮)の遺物出土状況を真上から撮影したものです。
須恵器の杯身や土師器の甕片などが出土しています。
この写真は、先程と同じSD1(仮)の遺物出土状況を西側から撮影した状況です。手前にみえている赤い塊は、焼土と考えられます。
SD1(仮)を完掘した状況です。
既存の吉行泉線と並行であることがわかります。
ところで、道路を挟み、右写真の角にわずかに見える道路際の植栽がお分かりになるでしょうか。
この部分を含み、現在公園となっている地点では、以前、当文化財センターが実施した史跡安芸国分寺跡の発掘調査において、築地塀と雨落ち溝の遺構を発見しています。
やはり、このたびの溝と並行に沿っていることから、その関連が伺えますが、これから発掘調査報告書を製作する段階で、研究を深めたいと考えております。
次の写真は、実測という測量作業の模様です。
真ん中にあります隅丸長方形状の遺構の形を書いている様子です。
原寸大で書くと、紙がいくつあっても足りませんので、遺構の平面図を書く場合、通常であれば、専用の方眼紙に当センターでは20分の1で書くことが多いです。
平面図を書いた後は、その書いた遺構や地面の標高を書き記しておく必要があります。
その為の作業が、右写真のレベリングです。
実際どんな風に作業するかといいますと、手前の人が、レベルという測量機器で奥の人が持つスタッフという言わばものさしに記されている目盛りを読むという方法で、標高を図面に記入していきます。
ただし、記入した標高は、レベルの目線でみた目盛りの数値なので、そのままでは活用できません。
実際の標高を復元する際には、このレベルの目線の数値から計測した各標高を引いて、数値を割り出す必要があるのです。
7月末 第1調査区の調査終了
右写真は、第1調査区空中写真撮影の模様です。
この頃すでに猛暑がやってきておりました。
しかし、この後もっと厳しい暑さがやって来ようとは・・・
8月 第2調査区の調査はじまる。
調査の舞台を南側に移し、第2調査区の調査が開始しました。
9月 時にはこんなことも・・・。
昨年は非常に多かった局地的な激しい雷雨。
今年は、暑すぎて大変でしたが、雨が降らないから調査としては助かるなと思っておりました。
しかし、時にはそんな順調な調査を不意の夕立が襲うこともありました。
右写真は、排水が間に合わず、調査区の半分程度が水没した第2調査区の状況です。
夕立の後は、うその様に晴れあがっていました。
これは、掘立柱建物になるかなと考えている柱穴列群です。仮にSB1と名づけています。
推定箇所も含め考えると、2間×5間の長方形の建物となりそうです。いくつかの柱穴には、柱材が残存していました。
時期は、検討中ですが、近世の磁器などが出土していることから近世後半あるいは近代にかかるような建物であったのかと想定しております。
10月 ラストスパート!
いよいよ、最後の1ヶ月。調査も仕上げ段階です。
さて、そんな中、興味深い柱穴が発見されました。
右写真は、掘立柱建物と考えられるSB2(仮)の柱穴の一つ(P1)です。
上記のような柱穴は、右写真のようにもう1基発見されました。SB2(仮)のもう一つの柱穴(P2)です。
なお、こちらは南側に位置する柱穴になります。
穴の中央にもう一つ浅く小さい穴があるのがお分かりでしょうか?
ここには、柱材の痕跡が残っていました。
右は、SB2(仮)のP1とP2という2つの柱穴の中心間距離を示した写真です。おおよそですが、約3.3mあることがわかりました。
この遺構は、古代の柱穴である可能性もうかがえるのですが、残念ながら特定に必要な遺物が1点も出土しませんでした。
ということで、その特定には、さらに検討が必要であると考えております。
10月末 調査終了
そんな訳で、5ヶ月の調査も終了となりました。
右写真は、第2調査区で出土した遺物です。
須恵器や土師器といった古代の土器類、近世~近代の陶磁器類など出土しています。
第1調査区の成果を合わせると、多くの遺物が出土しました。 これから、発掘調査報告書を作成していくにあたり、この成果をまとめ、地域の歴史を解き明かす資料としてまとめていこうと考えております。
では、 安芸国分寺周辺遺跡のブログはこれにて終了いたします。
長らくのお付き合い誠にありがとうございました。
おしまい
2007年11月2日金曜日
戸鼻遺跡(11月1日)
発掘調査終了
戸鼻遺跡の発掘調査が10月31日をもって終了しました。
福富ダムの建設に伴い行われた緊急調査で、調査面積が2,930㎡、調査期間は5月1日から10月31日までの6ヶ月でした。
写真は遺跡の全景を現場北側の道路より撮影したもので、写真中央より右手に建設中の橋がみえます。ダムが完成した暁には、この橋がダム湖に架かり新たな国道となる予定です。
調査期間中は事故もなく無事に終了しましたが、7月の長雨で作業中止日が続き、8月の猛暑により現場作業員さんが数名体調を崩されるなど、全般的に作業量と日程に追われた感のある発掘調査でした。
これから、発掘された建物跡などの遺構や土器などの遺物といった発掘成果を整理して、遺跡を後世に伝えていくための報告書作りが始まります。
最後になりましたが、調査に御協力いただきました皆様、そして、この発掘速報をご覧いただきました皆様、本当にありがとうございました。
戸鼻遺跡の発掘調査が10月31日をもって終了しました。
福富ダムの建設に伴い行われた緊急調査で、調査面積が2,930㎡、調査期間は5月1日から10月31日までの6ヶ月でした。
写真は遺跡の全景を現場北側の道路より撮影したもので、写真中央より右手に建設中の橋がみえます。ダムが完成した暁には、この橋がダム湖に架かり新たな国道となる予定です。
調査期間中は事故もなく無事に終了しましたが、7月の長雨で作業中止日が続き、8月の猛暑により現場作業員さんが数名体調を崩されるなど、全般的に作業量と日程に追われた感のある発掘調査でした。
これから、発掘された建物跡などの遺構や土器などの遺物といった発掘成果を整理して、遺跡を後世に伝えていくための報告書作りが始まります。
最後になりましたが、調査に御協力いただきました皆様、そして、この発掘速報をご覧いただきました皆様、本当にありがとうございました。
2007年11月1日木曜日
安芸国分寺周辺遺跡(10月29日~31日)
全ての調査を終了致しました。
右の写真は、第2調査区の完掘状況を撮影した全体写真です。
今回の発掘調査は、非常に天候に恵まれ、予定通り作業がはかどりました。第1調査区とあわせて5ヵ月間に渡る調査もこれで終了となりました。
左の写真は、掘った土を埋め戻している状況です。
現場を掘り起こしたときのように、バックホーと呼ばれる重機で埋め戻し、地面を平らに整えています。
右の写真は、埋め戻しを完了した状況です。
最後は上の写真にありますように、仮設しておりました現場事務所を撤去して、発掘調査は全て終了となりました。
何事も無く、無事終了し調査員・作業員一同、安堵しております。 近隣住民の皆様方をはじめ、ご通行の皆様方には、5ヶ月間に渡りご迷惑とご不便ををおかけしましたことをお詫びいたしますとともに、ご理解とご協力を賜りましたことを御礼申しあげます。
この調査の成果につきましては、今後、発掘調査報告書を作成し、公開していく予定です。
また、その一部については、また後日、このブログにてご紹介したいと考えております。
右の写真は、第2調査区の完掘状況を撮影した全体写真です。
今回の発掘調査は、非常に天候に恵まれ、予定通り作業がはかどりました。第1調査区とあわせて5ヵ月間に渡る調査もこれで終了となりました。
左の写真は、掘った土を埋め戻している状況です。
現場を掘り起こしたときのように、バックホーと呼ばれる重機で埋め戻し、地面を平らに整えています。
右の写真は、埋め戻しを完了した状況です。
最後は上の写真にありますように、仮設しておりました現場事務所を撤去して、発掘調査は全て終了となりました。
何事も無く、無事終了し調査員・作業員一同、安堵しております。 近隣住民の皆様方をはじめ、ご通行の皆様方には、5ヶ月間に渡りご迷惑とご不便ををおかけしましたことをお詫びいたしますとともに、ご理解とご協力を賜りましたことを御礼申しあげます。
この調査の成果につきましては、今後、発掘調査報告書を作成し、公開していく予定です。
また、その一部については、また後日、このブログにてご紹介したいと考えております。
2007年10月30日火曜日
溝口4号遺跡の発掘調査(10月30日)
鎌倉時代の東広島呉道路!?
溝口4号遺跡の発掘調査も佳境を迎え、ほぼ全体像が現れてきました。
今回は、調査区の北端で見つかった石敷き道路をご紹介します。
写真は、石敷き道路を掘り出しているところ(上の写真)と、石敷き部分を西上から撮ったもの(下の写真)です。
道幅は1mほどの狭いものですが、石敷きでない道が南に一直線に続いており、その幅は1.4m~1.8mありますので、全体では1間(約1.8m)の幅を意識した道だったと思われます。
石敷きの見つかったところからは地形が北に下がっており、さらに西方向からきた流路が石敷き部分でぶつかり、北に向きを変えています。流路で道がえぐられた部分には、数多くの石が投げ込まれ、その上に平たい石が置かれていることから、道が流されないように石で舗装したものと推測できます。
道は、掘立柱建物跡や民家の敷地と思われる平坦面の間を真っ直ぐ南に延びており、村の中を縦断する主要な道路であったと考えられます。
道の使われていた時代は、石の間に挟まっていた土器や下の写真にあるような流路の中の土鍋などから、鎌倉時代の終わり頃だったことがわかりました。
溝口4号遺跡の調査は、東広島呉自動車道建設に伴う発掘調査です。この道が、どことどこを結ぶ道だったのか明らかにすることはできませんが、ひょっとしたら、山を越えて呉と溝口を結ぶ道だったかも知れませんね。
文化財センターからのお知らせ
2007年10月23日火曜日
安芸国分寺周辺遺跡(10月15日~19日)
ヘリコプターがやってきた!
発掘調査もいよいよ大詰めを迎えました。
そんな中、左の写真にあるように、なんと今日は現場に巨大ヘリコプターが出現・・・!?
・・・って、実はこれラジコンヘリコプターなんです。
発掘調査では遺跡全体を掘りあげた後、その調査範囲全体を撮影するために、このようなラジコンヘリコプター(略してラジヘリ)を利用することが多いのです。
右の写真にありますように、ラジヘリ専門のオペレーターの方にお願いして撮影を行います。
住宅街ゆえ、電線や道路等、気を遣うことが多い場所なのですが、熟練の操作によって無事撮影を完了することができました。
付近の皆様方には、騒音等でご迷惑をおかけしたことと存じます。この場にてお詫び申しあげます。
空中撮影も終了したことで大きなヤマ場を越えました。調査も残り僅か、どうぞ最後までよろしくお願いいたします。
発掘調査もいよいよ大詰めを迎えました。
そんな中、左の写真にあるように、なんと今日は現場に巨大ヘリコプターが出現・・・!?
・・・って、実はこれラジコンヘリコプターなんです。
発掘調査では遺跡全体を掘りあげた後、その調査範囲全体を撮影するために、このようなラジコンヘリコプター(略してラジヘリ)を利用することが多いのです。
右の写真にありますように、ラジヘリ専門のオペレーターの方にお願いして撮影を行います。
住宅街ゆえ、電線や道路等、気を遣うことが多い場所なのですが、熟練の操作によって無事撮影を完了することができました。
付近の皆様方には、騒音等でご迷惑をおかけしたことと存じます。この場にてお詫び申しあげます。
空中撮影も終了したことで大きなヤマ場を越えました。調査も残り僅か、どうぞ最後までよろしくお願いいたします。
2007年10月4日木曜日
戸鼻遺跡(10月1日)
上の写真は土層を観察するために、畦(あぜ)を残して発掘しているところです。土層観察の結果、何回かにわたって黒い土が堆積したことがわかりました。遺構の規模は、直径約4~5m、深さ約0.8mです。
下の写真は別の遺構です。こちらは土層観察用の畦を取り払ったところです。穴の底からは人頭大の自然石が出てきました。遺構の規模は直径約5m、深さ約0.8mです。
これらの穴からは、中世に使われたと思われる素焼きの擂鉢や土鍋などの調理道具が出土しています。もしかしたらここでも、当時の人々が現代と同じように家族で食卓を囲んでいたのかも知れませんね。
下の写真は別の遺構です。こちらは土層観察用の畦を取り払ったところです。穴の底からは人頭大の自然石が出てきました。遺構の規模は直径約5m、深さ約0.8mです。
これらの穴からは、中世に使われたと思われる素焼きの擂鉢や土鍋などの調理道具が出土しています。もしかしたらここでも、当時の人々が現代と同じように家族で食卓を囲んでいたのかも知れませんね。
2007年9月25日火曜日
安芸国分寺周辺遺跡(9月21日)
戸鼻遺跡(9月25日)
2007年9月21日金曜日
溝口4号遺跡の発掘調査
弥生の環濠?現る!!
9月に入って、溝口4号遺跡の具体的な様相が、徐々に明らかになってきました。
調査区の中央から南寄りの西側では、鎌倉時代頃と思われる掘立柱建物跡が見つかっていますが、さらにその南側で、調査区を横断するように、ほぼ南北方向の大きな溝が見つかりました。
掘り進めていくと、溝の深さは1m以上、幅は広いところで3m近くにもなる、V字形の溝であることがわかりました。
当初は、鎌倉時代の集落に伴うものではないかと考えていましたが、溝の中からは弥生土器以外出土しなかったことから、これが、弥生時代の大きな溝であることがわかりました。
全体のほんの一部しか調査ができないので、断言はできませんが、弥生時代のV字形の溝といえば、「環濠」(かんごう)と呼ばれる、集落を囲むお城の堀のような溝であることが普通です。
環濠の可能性のあるものを含めても、市内で4例目となる貴重な遺跡です。
眺めのよいこの場所に、かつて堀に囲まれた弥生の大きな村が広がっていたのでしょうか。
写真は、溝を検出した状況と掘っている作業風景です。
2007年9月10日月曜日
安芸国分寺周辺遺跡(9月7日)
発掘調査点描~その1~
「9月の調査風景より」
9月になっても暑い日々が続きます。
このブログをご覧いただいているみなさまもきっと残暑でお疲れのことと存じます。
夏の疲れが出る時期ですので、どうぞお体にはご自愛ください。
そんな中、発掘調査もがんばっております。
「9月の調査風景より」
9月になっても暑い日々が続きます。
このブログをご覧いただいているみなさまもきっと残暑でお疲れのことと存じます。
夏の疲れが出る時期ですので、どうぞお体にはご自愛ください。
そんな中、発掘調査もがんばっております。
古代の遺構が存在する面より上層の土(遺物包含層)を除去している様子です。
古代の遺構面です。「どこにあるかなぁ?」と道具で土を削りながら、遺構を探している様子です。
発掘調査で使う道具は、非常にたくさんあります。
ちなみに調査で使用する道具は「刷毛」や「竹串」だけではありません。
これらの発掘道具ですが、全国各地の土質などにより、その道具も違います。
上記写真のような検出作業の場合、当センターでは、主に小型の両刃鎌(「ミニ三角」とか「ガリ」などと言います。)を利用します。
機会がありましたら、道具の紹介もしてみたいと考えております。
ちなみに調査で使用する道具は「刷毛」や「竹串」だけではありません。
これらの発掘道具ですが、全国各地の土質などにより、その道具も違います。
上記写真のような検出作業の場合、当センターでは、主に小型の両刃鎌(「ミニ三角」とか「ガリ」などと言います。)を利用します。
機会がありましたら、道具の紹介もしてみたいと考えております。
2007年9月4日火曜日
戸鼻遺跡(8月6日~10日)
2007年9月3日月曜日
戸鼻遺跡(9月3日)
2007年8月31日金曜日
安芸国分寺周辺遺跡(8月20~24日)
中学生たちが遺物整理作業を体験しました。
右の写真は、東広島市立高屋中学校2年生の4人による「遺物洗浄作業」の様子です。
彼らは、8月20日から24日までの5日間、当センターにて職場体験学習を行いました。
この職場体験学習(わくわく・ワーク)は、東広島市教育委員会が市立中学校の2年生を対象に、毎年実施しているものです。
「遺物の材質の違いによって、洗い方にも配慮が必要だよ。」「遺物をよく観察して、使うブラシを替えてね。」などといった職員による遺物洗浄の際の注意にも、彼らはしっかり耳を傾け、上手に作業を行っていました。
当遺跡から出土したばかりの瓦や須恵器を初めて手にした彼ら。洗浄しながらきれいになっていく遺物を見て、表れる「うつわ」の色や瓦の布目などに興味津々の様子でした。
右の写真は、東広島市立高屋中学校2年生の4人による「遺物洗浄作業」の様子です。
彼らは、8月20日から24日までの5日間、当センターにて職場体験学習を行いました。
この職場体験学習(わくわく・ワーク)は、東広島市教育委員会が市立中学校の2年生を対象に、毎年実施しているものです。
「遺物の材質の違いによって、洗い方にも配慮が必要だよ。」「遺物をよく観察して、使うブラシを替えてね。」などといった職員による遺物洗浄の際の注意にも、彼らはしっかり耳を傾け、上手に作業を行っていました。
当遺跡から出土したばかりの瓦や須恵器を初めて手にした彼ら。洗浄しながらきれいになっていく遺物を見て、表れる「うつわ」の色や瓦の布目などに興味津々の様子でした。
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