2008年12月19日金曜日
山口遺跡(12月19日)
発掘調査が終了しました。
12月19日をもって発掘調査が終了しました。
調査成果を報告します。
調査区から、方形の土坑やいくつかの穴がみつかりました。
遺物としては、石でつくった矢じりや、
それを作った時に出た石のかけら、砥石、そして鉄器などが出土しました。
写真は作業の様子を撮影したもので、土坑を半分に掘って土で埋められていた状況を調べているところです。土坑は幅120㎝×100㎝、深さは60㎝もあります。
この土坑がつくられた目的は、まだわかっていません。
これから出土遺物をさらに研究し、来年度刊行予定の報告書で
詳しく報告したいと思います。
本調査は、文化財センターが黒瀬町域で発掘を行なった遺跡としては、初めての例です。
2ヶ月という短い調査期間でしたが、黒瀬の歴史復元の資料となりうる調査でした。
今後の調査研究に活用していきたいとおもいます。
2008年11月19日水曜日
山口遺跡(11月5日)
黄幡第4号古墓(11月28日)
発掘調査が終わりました
2か月にわたる発掘調査を11月28日に無事終わることができました。
ここで、調査の成果をご紹介します。
調査の結果、大量に石が積まれていた盛り上がり(右上の写真)は積石塚であることが分かりました。石と石の間からは古銭や灯明皿が多くみつかったことや、積石塚のあったところがちょうど峠の乗り越し部分にあたることなどから、峠の祭祀に関係するものではないかと考えています。
さらに積石塚の下からは、地山(もともとの地面)を削って造られた道がみつかりました。この道は、利用された後に石で埋められ(右下の写真)、その上に積石塚が造られたようです。
この積石塚が造られたのは、室町時代の終わり頃と考えられます。その後、上にだんだん石が積まれていき、江戸時代から明治頃まで峠を通る人々の信仰の対象であったようです。
2か月にわたる発掘調査を11月28日に無事終わることができました。
ここで、調査の成果をご紹介します。
調査の結果、大量に石が積まれていた盛り上がり(右上の写真)は積石塚であることが分かりました。石と石の間からは古銭や灯明皿が多くみつかったことや、積石塚のあったところがちょうど峠の乗り越し部分にあたることなどから、峠の祭祀に関係するものではないかと考えています。
さらに積石塚の下からは、地山(もともとの地面)を削って造られた道がみつかりました。この道は、利用された後に石で埋められ(右下の写真)、その上に積石塚が造られたようです。
この積石塚が造られたのは、室町時代の終わり頃と考えられます。その後、上にだんだん石が積まれていき、江戸時代から明治頃まで峠を通る人々の信仰の対象であったようです。
2008年11月10日月曜日
山口遺跡(11月10日)
2008年11月8日土曜日
御建遺跡(みたていせき)の発掘調査が始まりました。
平成20年11月1日から、約2ヶ月の予定で御建遺跡の発掘調査が始まりました。
御建遺跡は、JR山陽本線西条駅の北口新設に伴う、西条駅北線街路整備と北口のロータリー建設のために事前に発掘調査を実施するものです。
今年度の発掘調査は、駅のすぐ北側の一区画とそこから西に50mほどの一区画、計500㎡ほどの調査を実施します。
この地域は、四日市宿と呼ばれた江戸時代の西条の街並みの北の端に相当し、浄土真宗教善寺や御建神社の門前に当たります。このように歴史を感じさせる地域ではありますが、西条駅のすぐ北側であるため、同時に市街化も大きく進んだ地域となっています。
11月は、西側の区画から調査を始めました。宅地化のため、非常に厚い盛土に覆われ、かつての地形が大きく改変されているようですが、厚い盛土の下から、溝や柱穴などの遺構が徐々に姿を現しつつあります。
小規模な調査ではありますが、今後の展開を楽しみにしていてください。
(写真は西側の調査区を北から撮影したもの)
2008年11月7日金曜日
溝口4号遺跡の調査が終わりました その1
5ヶ月に及んだ溝口4号遺跡の発掘調査ですが、10月31日に無事終了することができました。
最後に、溝口4号遺跡の発掘調査成果についてご紹介しておきたいと思います。
溝口4号遺跡は、主に、弥生時代中期(約2000年前)の環濠集落跡と鎌倉時代(約700年前)の溝に囲まれた集落跡からなる遺跡です。
環濠集落については、昨年平成19年度の調査で、幅1~3m、深さ1m余りの環濠と幅30mほどの広場状の空白地帯、そして、掘立柱建物跡群が見つかっています。
今年度の調査では、環濠集落の中心に近い部分を調査しています。見つかったのは竪穴住居跡2棟のみですが、1棟は、直径約6mの大型の建物跡でした。出土 遺物はあまり多くありませんでしたが、鉢や甕、高杯(たかつき)などの土器や石で作られた斧や矢尻などが見つかりました。
下の写真の中央やや上方に目玉のように丸く見えるのが竪穴住居跡です。
今年度の調査区からは、掘立柱建物跡はまったく見つかりませんでした。
以上のような調査結果から、溝口4号遺跡の環濠集落は、おおよそ次のような構造だったといえそうです。
集落の外周には、環濠がめぐらされ、所によっては2重になっていました。環濠のすぐ内側には帯状に広場が作られ、見通しが効くとともに、戦争の時には兵士 が走り回るのに都合が良いようになっていました。その内側には掘立柱建物が何棟も建てられています。倉庫などに使われていたのでしょうか。居住空間はその内側です。竪 穴住居がある程度の間隔をあけて配置されていました。
想像も含めてですが、以上のような景観がこの遺跡の2000年前の姿だったのではないでしょうか。
高屋地区では、これまで数多くの弥生時代の集落跡が見つかっていますが、環濠集落が見つかったのは初めてのことです。見晴らしがよく、やや小高い溝口4号遺跡の環濠集落は、当時の高屋地区の中心だったのかも知れませんね。
(写真上:19年度調査弥生時代環濠跡、写真中:20年度調査弥生時代竪穴住居跡、写真下:20年度調査区)
溝口4号遺跡の見学会
10月19日(日)の午後1時30分から、溝口4号遺跡の見学会を開催しました。
事前のお知らせが十分ではなかったにもかかわらず、120人余りの方々においでいただき、遺跡現地で、遠く鎌倉時代の溝口に思いを馳せていただきました。
中には、午後は用があるからと、朝から来られる方が何人もいらっしゃいました。現地の説明は出来ませんでしたが、その方々も出土遺物を見たり、遺跡内を散策されたりと、思い思いに楽しんでおられるようでした。
1時半からの見学会では、文化財センター所長のあいさつに始まり、その後1時間ほどの予定で現地の遺構を見て回る予定でしたが、少々時間をオーバーして、約1時間半、最後まで熱心に主な遺構とその説明をお聞きいただきました。
終了後も、多くの質問が寄せられ、皆さんの熱心な様子に、主催者側も大いに安堵するとともに、今後も充実した見学会を開催したいという思いを新たにしました。
溝口4号遺跡の見学会の様子は、10月20日の中国新聞朝刊にも掲載され、見学会に来られなかった方々にも成果の一端をお知らせすることができました。
(写真上:出土品を見る見学者、 写真下:大溝の説明を聞く見学者)
事前のお知らせが十分ではなかったにもかかわらず、120人余りの方々においでいただき、遺跡現地で、遠く鎌倉時代の溝口に思いを馳せていただきました。
中には、午後は用があるからと、朝から来られる方が何人もいらっしゃいました。現地の説明は出来ませんでしたが、その方々も出土遺物を見たり、遺跡内を散策されたりと、思い思いに楽しんでおられるようでした。
1時半からの見学会では、文化財センター所長のあいさつに始まり、その後1時間ほどの予定で現地の遺構を見て回る予定でしたが、少々時間をオーバーして、約1時間半、最後まで熱心に主な遺構とその説明をお聞きいただきました。
終了後も、多くの質問が寄せられ、皆さんの熱心な様子に、主催者側も大いに安堵するとともに、今後も充実した見学会を開催したいという思いを新たにしました。
溝口4号遺跡の見学会の様子は、10月20日の中国新聞朝刊にも掲載され、見学会に来られなかった方々にも成果の一端をお知らせすることができました。
(写真上:出土品を見る見学者、 写真下:大溝の説明を聞く見学者)
2008年11月6日木曜日
黄幡第4号遺跡(11月7日)
**中間報告**
調査を開始して、1か月が経過しました。
ここで、現在までの調査状況を報告します。
前回ご紹介したように、石積みの実測(図面を描く作業)はひと苦労でしたが、無事終わりました。
実測後は、石をはずしていく作業です。
南北と東西にそれぞれ約1m幅のあぜ(断面をみるためもの)を残し、石を除去していきました。すると、厚いところで約1mも石が積まれていることが分かりました。
(その様子が、右上の写真です。)
さらに除去作業を進めていくと、石積みの下から、別の遺構が見つかりました。
(右下写真の手前の遺構です。)
その遺構は、深さ約1mの溝状の掘り込みに石が埋まっていました。
溝だったのか道だったのか今のところ、性格については分かっていません。
石積みは、これを埋めて、その上に造られたようです。
今後は、あぜを取り除く作業と掘り込み中の石を取り除く作業を行ない、さらに詳しく調査を進めていきます。
調査を開始して、1か月が経過しました。
ここで、現在までの調査状況を報告します。
前回ご紹介したように、石積みの実測(図面を描く作業)はひと苦労でしたが、無事終わりました。
実測後は、石をはずしていく作業です。
南北と東西にそれぞれ約1m幅のあぜ(断面をみるためもの)を残し、石を除去していきました。すると、厚いところで約1mも石が積まれていることが分かりました。
(その様子が、右上の写真です。)
さらに除去作業を進めていくと、石積みの下から、別の遺構が見つかりました。
(右下写真の手前の遺構です。)
その遺構は、深さ約1mの溝状の掘り込みに石が埋まっていました。
溝だったのか道だったのか今のところ、性格については分かっていません。
石積みは、これを埋めて、その上に造られたようです。
今後は、あぜを取り除く作業と掘り込み中の石を取り除く作業を行ない、さらに詳しく調査を進めていきます。
2008年10月14日火曜日
黄幡第4号古墓(10月14日)
黄幡第4号古墓の調査が始まりました!
黄幡第4号古墓(所在地:西条町下見)の発掘調査が10月2日から始まりました。道路改良工事に伴う調査で、11月末までの予定です。
これまでの調査で分かったことを紹介します。
調査は、古墓を覆う土や木などを取り除く作業から始まりました。土などを取り除いていくと、大きさ10~40㎝程の石がたくさん積まれている様子を確認することができました。(右の写真がその様子です。)範囲が約6×8m、高さが約2mで、楕円状に石が積まれており、寛永通宝(古銭)や鍋などが出土しています。また、すぐ隣には、天保六年(1835年)と刻まれた石碑が建てられており、信仰の対象でもあったようです。
今後は、記録保存の為に実測の作業に入ります。石がたくさんあるので大変な作業になりそうです。実測が終われば、さらに調査を進めていきます。
今後の成果もご報告していきますので、ぜひご覧ください。
黄幡第4号古墓(所在地:西条町下見)の発掘調査が10月2日から始まりました。道路改良工事に伴う調査で、11月末までの予定です。
これまでの調査で分かったことを紹介します。
調査は、古墓を覆う土や木などを取り除く作業から始まりました。土などを取り除いていくと、大きさ10~40㎝程の石がたくさん積まれている様子を確認することができました。(右の写真がその様子です。)範囲が約6×8m、高さが約2mで、楕円状に石が積まれており、寛永通宝(古銭)や鍋などが出土しています。また、すぐ隣には、天保六年(1835年)と刻まれた石碑が建てられており、信仰の対象でもあったようです。
今後は、記録保存の為に実測の作業に入ります。石がたくさんあるので大変な作業になりそうです。実測が終われば、さらに調査を進めていきます。
今後の成果もご報告していきますので、ぜひご覧ください。
2008年9月11日木曜日
安芸国分寺周辺遺跡(9月11日)
安芸国分寺周辺遺跡(9月1日)
郷1号遺跡(8月29日)
遺跡の調査終了!
6月から始まった郷1号遺跡の調査が終了しました。6・7・8月と暑い最中でしたが、作業員の皆さんには頑張っていただきました。怪我や体調を崩すこともなく、無事に調査を終えることができました。ありがとうございました。
写真は、発掘調査速報で何度か紹介したラジコンヘリからのものです。私たちが遺跡を上から撮影するには限界があります。そこで専門業者に撮影をお願いします。上空は風が強いうえに、ラジコンヘリという不安定な機材から撮影するので、かなり技術が必要では?といつも思います。写真からは地図上では感じられない遺跡の地理や環境がよくわかります。
今後は、年度末に向けて調査成果を報告書にまとめていく作業を行います。出来上がった報告書は東広島市中央図書館や広島大学図書館で閲覧することができます。調査は終了しましたが、整理作業の経過などをまた紹介したいと考えています。
6月から始まった郷1号遺跡の調査が終了しました。6・7・8月と暑い最中でしたが、作業員の皆さんには頑張っていただきました。怪我や体調を崩すこともなく、無事に調査を終えることができました。ありがとうございました。
写真は、発掘調査速報で何度か紹介したラジコンヘリからのものです。私たちが遺跡を上から撮影するには限界があります。そこで専門業者に撮影をお願いします。上空は風が強いうえに、ラジコンヘリという不安定な機材から撮影するので、かなり技術が必要では?といつも思います。写真からは地図上では感じられない遺跡の地理や環境がよくわかります。
今後は、年度末に向けて調査成果を報告書にまとめていく作業を行います。出来上がった報告書は東広島市中央図書館や広島大学図書館で閲覧することができます。調査は終了しましたが、整理作業の経過などをまた紹介したいと考えています。
2008年9月9日火曜日
郷1号遺跡(8月25日)
以前、このブログで箱式石棺(郷第2号墳)を紹介しました。調査を進めるうちに、新たな発見がありましたのでお知らせします。
第2号墳の石棺の石を取り除いたところ、石の裏側から鉄製品が出てきました。大きさは、長さ約9cm、幅約2cm、厚さ約4mmです。ノコギリか穂摘具でしょうか?錆が付着してかなりボロボロになっており、ちょっと触っただけでも簡単に崩れてしまいそうでした。石と穴との間はわずかに2,3cmといったところで、状況から埋葬するための穴を掘って石を並べる段階で、すき間に鉄製品を納めたと考えられます。
副葬品からは、その種類や配置場所から死者の地位や職業などを推定することができます。埋葬された人物はどんな人だったのでしょうか?
2008年9月2日火曜日
溝口4号遺跡(8月18日~22日)
2008年8月28日木曜日
郷1号遺跡(8月18日)
弥生時代のリフォーム
前回に続いて竪穴住居跡(SB2)を紹介します。(写真右上)直径約6.3m、深さは約0.4mです。前回のブログでは柱穴の無い竪穴住居(SB1)を紹介しましたが、このSB2は7本の柱が立っていたと考えています。この状態から、さらに掘り進めていくと、下の写真のように溝とたくさんの柱穴が出てきました。これは、同じ場所で住居の建て替えが何回も行われたことを意味しています。出土した土器はほとんとどが弥生時代後期前半のもので、住居の建て替えは比較的短期間のうちに行われたことがわかりました。
食料が集めやすかった、気候が温暖であったなど、住人がこの場所に住み続けた理由はいろいろ考えられますが、一つには家を建てる労力が最低限で済んだということがあるのではないでしょうか。長い間、住んでいるうちに家は傷んできて、建て替えが必要になってきます。現在のように道具が豊富にあるわけではありません。人の力だけで固い土を掘っていくのはかなりの重労働です。そこで、一度建てた場所を再利用して住んでいたと考えられるのです。
前回に続いて竪穴住居跡(SB2)を紹介します。(写真右上)直径約6.3m、深さは約0.4mです。前回のブログでは柱穴の無い竪穴住居(SB1)を紹介しましたが、このSB2は7本の柱が立っていたと考えています。この状態から、さらに掘り進めていくと、下の写真のように溝とたくさんの柱穴が出てきました。これは、同じ場所で住居の建て替えが何回も行われたことを意味しています。出土した土器はほとんとどが弥生時代後期前半のもので、住居の建て替えは比較的短期間のうちに行われたことがわかりました。
食料が集めやすかった、気候が温暖であったなど、住人がこの場所に住み続けた理由はいろいろ考えられますが、一つには家を建てる労力が最低限で済んだということがあるのではないでしょうか。長い間、住んでいるうちに家は傷んできて、建て替えが必要になってきます。現在のように道具が豊富にあるわけではありません。人の力だけで固い土を掘っていくのはかなりの重労働です。そこで、一度建てた場所を再利用して住んでいたと考えられるのです。
2008年8月26日火曜日
溝口4号遺跡(8月31日)
竪穴住居跡がみつかりました。
調査が始まって約3ヶ月がたちました。現在は調査区のほぼ中央で調査が行われています。
中央からやや南寄りに、弥生時代中期の竪穴住居跡がみつかりました。
上の写真は土の堆積の様子を見るために一部を堀り残して、北から撮影したものです。
下の写真は遺物を残して、上から写したものです。
大きさは、直径約6m、深さは約0.3mの円形です。周囲に10本程度の柱穴が見えますが、全て住居に伴うのかはまだはっきりしません。
中心には炉が存在し、それを挟むように柱穴が出土しました。
これは松菊里(しょうぎくり)型とよばれ、朝鮮半島において、文様がなく全体的に厚手の土器を使用していた人々、いわゆる無文土器文化を形成していた集団により、この住居の作り方が日本に伝えられたといわれています。弥生時代初頭に九州でよく使われていた形態で、以後西日本で急速に発達しました。
遺跡の北に位置する高屋東3号遺跡においても、時代が新しくなりますが、同様の竪穴住居跡が何棟か検出されています。
住居内からは甕や高坏などの弥生土器、そして土器片の一部をが円盤状に丸く加工して、中心に穴を孔けた土製紡錘車などがみつかりました。土製紡錘車は、元来は穴に棒を挿し込み、綿花を巻いて回転させ撚ることにより、糸にする為に使われたものです。土製紡錘車に関しては祭祀に関する遺物と共に出土するケースもあります。今回は甕等の生活用具と共に発見されたことから、生活に根ざした実用品であった可能性が考えられます。
石器も出土しています。狩りなどに使用したと思われる石の矢じり・木の伐採等に使われたと考えられている太型蛤刃石斧・そして物を砕いたと考えられている台石・研磨に使用した大きな砥石もいくつかみられます。また石器を作るときに生じた小指の先程の破片(チップ)も一箇所に集中して多量に出土しており、この場所で石器を製作していたことが推測されます。
まだまだ発掘は続きます。次の成果報告をお楽しみに!
調査が始まって約3ヶ月がたちました。現在は調査区のほぼ中央で調査が行われています。
中央からやや南寄りに、弥生時代中期の竪穴住居跡がみつかりました。
上の写真は土の堆積の様子を見るために一部を堀り残して、北から撮影したものです。
下の写真は遺物を残して、上から写したものです。
大きさは、直径約6m、深さは約0.3mの円形です。周囲に10本程度の柱穴が見えますが、全て住居に伴うのかはまだはっきりしません。
中心には炉が存在し、それを挟むように柱穴が出土しました。
これは松菊里(しょうぎくり)型とよばれ、朝鮮半島において、文様がなく全体的に厚手の土器を使用していた人々、いわゆる無文土器文化を形成していた集団により、この住居の作り方が日本に伝えられたといわれています。弥生時代初頭に九州でよく使われていた形態で、以後西日本で急速に発達しました。
遺跡の北に位置する高屋東3号遺跡においても、時代が新しくなりますが、同様の竪穴住居跡が何棟か検出されています。
住居内からは甕や高坏などの弥生土器、そして土器片の一部をが円盤状に丸く加工して、中心に穴を孔けた土製紡錘車などがみつかりました。土製紡錘車は、元来は穴に棒を挿し込み、綿花を巻いて回転させ撚ることにより、糸にする為に使われたものです。土製紡錘車に関しては祭祀に関する遺物と共に出土するケースもあります。今回は甕等の生活用具と共に発見されたことから、生活に根ざした実用品であった可能性が考えられます。
石器も出土しています。狩りなどに使用したと思われる石の矢じり・木の伐採等に使われたと考えられている太型蛤刃石斧・そして物を砕いたと考えられている台石・研磨に使用した大きな砥石もいくつかみられます。また石器を作るときに生じた小指の先程の破片(チップ)も一箇所に集中して多量に出土しており、この場所で石器を製作していたことが推測されます。
まだまだ発掘は続きます。次の成果報告をお楽しみに!
2008年8月25日月曜日
溝口4号遺跡(8月25日)
鎌倉時代のお墓を発見
溝口4号遺跡の発掘調査は順調に進んでいます。前回は火葬墓を紹介しましたが、今回も墓の発見がありましたのでご報告します。
新たに見つかった墓は火葬墓の東にあります。この墓は火葬墓とは異なっていて、遺体をそのまま長方形の穴に埋めたものです。考古学ではこのような墓を土壙墓(どこうぼ)と呼んでいます。この土壙墓の中には、遺体と一緒に埋められた副葬品があり、土器の小皿と短刀が供えられていました。小皿と短刀は、遺体の頭の両側に置かれていました。短刀は約28㎝で、小皿は5枚重ねて置いてありました。土壙墓が造られた時代は鎌倉時代で、前回報告した火葬墓よりも前に造られたようです。
この土壙墓で興味深いところは、小皿が何枚も重ねられて置かれていた事です。どういう目的で、同じような小皿を重ねたのかはわかりませんが、墓の主が「死の世界」で使う食器を家族の人たちが用意したのかもしれません。
次回は弥生時代の建物跡について報告します。
※写真(上)が土壙墓の全体写真、(下)が重ねられた小皿。
2008年8月14日木曜日
郷1号遺跡(8月11日)
2008年7月28日月曜日
西中郷遺跡(7月31日)
西中郷遺跡の発掘調査終了。
西中郷遺跡の発掘は、7月31日をもって終了しました。
一ヶ月という短い期間でしたが、実りの多い発掘調査となりました。
写真を交えながら報告します。
一番上の写真は第1調査区の南半部を、北西から撮影したものです。
写真は全景写真を撮るために、きれいな遺構面をだしているところです。
南半部は主に包含層が堆積していました。弥生~古代~中世~近世の遺物が出土しています。
もしかしたら調査区の北側あたりに、昔の人々が生活していた跡があるのかもしれません。
真ん中の写真は第1調査区の北半部を、南西から撮影したものです。
北半部は主に中世から近世にかけての溝と穴がみつかりました。
溝は排水の為であると考えられますが、穴の用途はまだわかっていません。
一番下の写真は第2調査区を西から撮影したものです。
中心には、中世の溝がつくられています。
周囲からも中世から近世の溝、近世と考えられる柱穴が複数出土しています。
柱穴群の出土場所には、何らかの建物が建っていたことが考えられます。
以上、今回の発掘調査では、中世から近世までの貴重な遺構、そして包含層からは弥生~古代~中世~近世まで各時期の遺物がみつかっています。
ちなみに、遺跡から持ち帰った遺物は文化財センターで、洗浄・出土場所を記入する作業を経て、接合されます。どのような形になるか楽しみです。
西中郷遺跡の発掘は、7月31日をもって終了しました。
一ヶ月という短い期間でしたが、実りの多い発掘調査となりました。
写真を交えながら報告します。
一番上の写真は第1調査区の南半部を、北西から撮影したものです。
写真は全景写真を撮るために、きれいな遺構面をだしているところです。
南半部は主に包含層が堆積していました。弥生~古代~中世~近世の遺物が出土しています。
もしかしたら調査区の北側あたりに、昔の人々が生活していた跡があるのかもしれません。
真ん中の写真は第1調査区の北半部を、南西から撮影したものです。
北半部は主に中世から近世にかけての溝と穴がみつかりました。
溝は排水の為であると考えられますが、穴の用途はまだわかっていません。
一番下の写真は第2調査区を西から撮影したものです。
中心には、中世の溝がつくられています。
周囲からも中世から近世の溝、近世と考えられる柱穴が複数出土しています。
柱穴群の出土場所には、何らかの建物が建っていたことが考えられます。
以上、今回の発掘調査では、中世から近世までの貴重な遺構、そして包含層からは弥生~古代~中世~近世まで各時期の遺物がみつかっています。
ちなみに、遺跡から持ち帰った遺物は文化財センターで、洗浄・出土場所を記入する作業を経て、接合されます。どのような形になるか楽しみです。
2008年7月23日水曜日
西中郷遺跡(7月23日)
西中郷遺跡の発掘が進んでいます。
調査から2週間が経過し、遺跡の性格が少しずつ見えてきました。調査区は2つあります。面積が大きな第1調査区、もう一つは面積が小さな第2調査区です。
第2調査区は東端から西にかけて緩やかに地面が少しずつ下がります。現時点で3本の溝と柱穴がみつかっています。写真3は調査区の中心を通る溝を、東方向から撮影したものです。溝からは弥生時代の土器や古墳時代の土師器、中世の火鉢などが出土しました。他の2本の溝の時期については、近世と考えられますがまだはっきりとわかっていません。
今年の夏も猛暑の日々が続いておりますが、掘り進める度に中世の人々の貴重な痕跡が少しずつみえてきて、努力が報われる思いがしています。少しでも今後の研究の為になるように、真摯に調査を行ない、皆様に成果を報告できればと思います。次回をお楽しみに。
調査から2週間が経過し、遺跡の性格が少しずつ見えてきました。調査区は2つあります。面積が大きな第1調査区、もう一つは面積が小さな第2調査区です。
第1調査区は北端の微高地から南端に向かって地面が少しずつ下がります。南半部には弥生~古墳~古代~中世の包含層が20㎝程度堆積していました。写真1は北端でみつかった、溝や穴が集中していた部分を南方向から写したものです。溝は2本切り合っていました。1本は近世、もう1本はそれより古い溝です。穴の埋土から施釉陶器片が見つかりました。
写真2は陶器が見つかった場面です。中世のものと考えられます。他にはいくつかの柱穴が検出されています。
写真2は陶器が見つかった場面です。中世のものと考えられます。他にはいくつかの柱穴が検出されています。
第2調査区は東端から西にかけて緩やかに地面が少しずつ下がります。現時点で3本の溝と柱穴がみつかっています。写真3は調査区の中心を通る溝を、東方向から撮影したものです。溝からは弥生時代の土器や古墳時代の土師器、中世の火鉢などが出土しました。他の2本の溝の時期については、近世と考えられますがまだはっきりとわかっていません。
今年の夏も猛暑の日々が続いておりますが、掘り進める度に中世の人々の貴重な痕跡が少しずつみえてきて、努力が報われる思いがしています。少しでも今後の研究の為になるように、真摯に調査を行ない、皆様に成果を報告できればと思います。次回をお楽しみに。
2008年7月14日月曜日
郷1号遺跡(7月12日)
二基の古墳を発見
6月から調査を行っている郷1号遺跡ですが、遺跡の東端と西端でタイプの異なる二基の古墳を検出しました。
東端にある古墳(写真右上)は、横穴式石室という形態の埋葬施設を持つ円墳です。横穴式石室とは、古墳の側面から穴を掘って、その中に遺体を安置する部屋(玄室)とそこへつながる通路(羨道)を石で構築したものです。写真に見える部分は羨道と古墳の入り口をふさぐ閉塞石です。
西端の古墳は(写真右下)、箱式石棺という棺を持つものです。箱式石棺とは、遺体を納める棺を扁平な石を使用して箱形に組み合わせたものです。元々は石の蓋があったはずですが、今は失われています。
二基の古墳は約70mほど離れていますが、その両方から高屋盆地を見渡すことができます。埋葬された人々は変わっていく高屋の風景を眺めながら眠っていたことでしょう。
古墳の詳しい年代などはまだわかっていません。これからの調査で明らかにしていきたいと思います。
6月から調査を行っている郷1号遺跡ですが、遺跡の東端と西端でタイプの異なる二基の古墳を検出しました。
東端にある古墳(写真右上)は、横穴式石室という形態の埋葬施設を持つ円墳です。横穴式石室とは、古墳の側面から穴を掘って、その中に遺体を安置する部屋(玄室)とそこへつながる通路(羨道)を石で構築したものです。写真に見える部分は羨道と古墳の入り口をふさぐ閉塞石です。
西端の古墳は(写真右下)、箱式石棺という棺を持つものです。箱式石棺とは、遺体を納める棺を扁平な石を使用して箱形に組み合わせたものです。元々は石の蓋があったはずですが、今は失われています。
二基の古墳は約70mほど離れていますが、その両方から高屋盆地を見渡すことができます。埋葬された人々は変わっていく高屋の風景を眺めながら眠っていたことでしょう。
古墳の詳しい年代などはまだわかっていません。これからの調査で明らかにしていきたいと思います。
2008年7月8日火曜日
溝口4号遺跡(7月15日)
戦国時代の足跡発見
溝口4号遺跡での発掘調査が始まって、そろそろ1ヶ月が経とうとしています。遺跡の上にかぶっている土を取り除いていくと、溝口4号遺跡の内容がわかってきましたので、ご報告したいと思います。
まず、遺跡の西側では南北に伸びる大溝が発見されました。大きさは、幅約7m、深さ約1.2mで、長さは現在のところはっきりしていません。この溝の中からは、中世の頃の土器が出土していますので、その頃のものであると考えられます。またこの大溝を調査している最中に、約20㎝の人の足あとが残っているのを発見しました。あしの大きさは小さく、女性か子どものものではないでしょうか?この足あとは、大溝を埋めている土の上から発見されたもので、戦国時代ぐらいのものと考えられます。
また、遺跡の東側では弥生時代の土器や遺構が発見されています。遺構は竪穴住居跡、柱穴跡などが中心です。
遺跡の中央付近では、中世ごろの火葬墓が検出されました。火葬墓は直径2m程度の小さなもので、盛り土と焼けた土、炭で構成されています。火葬墓には土師質土器の皿が供えられていました。右はその写真です。
まだ、調査が始まって間もないので遺構の大まかな配置や遺跡のおおよその時期しかわかっておりませんが、引き続き発掘調査を進めていきたいと思います。調査で明らかになったことや、新たな発見があれば随時お伝えしていきますので楽しみにしていてください。
溝口4号遺跡での発掘調査が始まって、そろそろ1ヶ月が経とうとしています。遺跡の上にかぶっている土を取り除いていくと、溝口4号遺跡の内容がわかってきましたので、ご報告したいと思います。
まず、遺跡の西側では南北に伸びる大溝が発見されました。大きさは、幅約7m、深さ約1.2mで、長さは現在のところはっきりしていません。この溝の中からは、中世の頃の土器が出土していますので、その頃のものであると考えられます。またこの大溝を調査している最中に、約20㎝の人の足あとが残っているのを発見しました。あしの大きさは小さく、女性か子どものものではないでしょうか?この足あとは、大溝を埋めている土の上から発見されたもので、戦国時代ぐらいのものと考えられます。
また、遺跡の東側では弥生時代の土器や遺構が発見されています。遺構は竪穴住居跡、柱穴跡などが中心です。
遺跡の中央付近では、中世ごろの火葬墓が検出されました。火葬墓は直径2m程度の小さなもので、盛り土と焼けた土、炭で構成されています。火葬墓には土師質土器の皿が供えられていました。右はその写真です。
まだ、調査が始まって間もないので遺構の大まかな配置や遺跡のおおよその時期しかわかっておりませんが、引き続き発掘調査を進めていきたいと思います。調査で明らかになったことや、新たな発見があれば随時お伝えしていきますので楽しみにしていてください。
2008年7月4日金曜日
西中郷遺跡(7月1日)
西中郷遺跡の発掘調査開始。
西中郷遺跡の発掘調査が始まりました。ほ場整備に伴う調査で、遺跡は広いのですが道路部分の調査で、調査範囲はテニスコート4分の3にあたる約200㎡です。調査期間は7月1日から31日までを予定しています。
遺跡には西条町田口に所在し、低い丘陵に囲まれた平地(現在は水田)に位置します。周囲は、北西に二神山・北東に鏡山がそびえ、南の低丘陵地帯を越えると直近に古河川が見えます。
周辺の遺跡は、旧石器時代~近世にかけての遺跡があります。広島大学キャンパス内に存在した遺跡や、当センターが調査した西東子遺跡・三永水源地窯跡群など数多く存在しています。これらは西条盆地の歴史を復原する為に、貴重な研究資料となっています。
事前の試掘調査では弥生時代から中世にかけての時期の土器が出土しています。発掘調査で発見があり次第、ここでお伝えします。
西中郷遺跡の発掘調査が始まりました。ほ場整備に伴う調査で、遺跡は広いのですが道路部分の調査で、調査範囲はテニスコート4分の3にあたる約200㎡です。調査期間は7月1日から31日までを予定しています。
遺跡には西条町田口に所在し、低い丘陵に囲まれた平地(現在は水田)に位置します。周囲は、北西に二神山・北東に鏡山がそびえ、南の低丘陵地帯を越えると直近に古河川が見えます。
周辺の遺跡は、旧石器時代~近世にかけての遺跡があります。広島大学キャンパス内に存在した遺跡や、当センターが調査した西東子遺跡・三永水源地窯跡群など数多く存在しています。これらは西条盆地の歴史を復原する為に、貴重な研究資料となっています。
事前の試掘調査では弥生時代から中世にかけての時期の土器が出土しています。発掘調査で発見があり次第、ここでお伝えします。
2008年7月2日水曜日
溝口4号遺跡(6月23日~27日)
職場体験学習
6月23日~27日の5日間、当文化財センターでは、東広島市立向陽中学校二年生3名の、職場体験学習を受け入れました。5日間の中で生徒たちには、現地(溝口4号遺跡)での発掘作業を3日間、室内での整理作業を2日間体験してもらいました。
画像は、現場での発掘作業を行っている写真です。上の写真は発掘作業の一コマで、遺跡西側に存在する大溝を発掘しています。この大溝からは中世のものと思われる土器が出土しており、彼ら自身も何点かの土器を発掘しました。
下の写真はレベルで標高を出す作業をしているところです。他に平板測量、土嚢作り、平面図の作成等を行いました。一通りの作業を体験しましたが、出土品を発見して歓声をあげるなど、現地での発掘作業が一番興味深かったようです。今回の体験で学んだことを、将来の糧にして貰えればと思います。
また、溝口4号遺跡の発掘状況は、全体の表土剥ぎと併行して、大溝の発掘を行っています。新しい発見がありましたら、当ブログで報告したいと思います。
2008年6月23日月曜日
郷1号遺跡(6月9日)
2008年6月20日金曜日
杵原2号遺跡ダイジェスト~その2~
前回は,調査に入るまでの様子を中心にお伝えした杵原2号遺跡の模様でしたが、今回は,調査の内容にも迫ってまいります。
発掘調査あれこれ~調査風景~
4月下旬
第2調査区包含層において,弥生土器が出土しました。
⇒弥生土器の破片が点在する出土状況
⇒第2調査区包含層出土状況の一部分を拡大(弥生土器の表面にあしらった刺突文が確認できる。)
⇒第2調査区包含層出土状況の一部分を拡大(弥生土器の口縁部が逆さまになった状態)
5月上旬
第1調査区SK3では,弥生土器が埋められた土坑を検出しました。
⇒発掘作業風景
⇒発掘作業風景(図面や写真撮影の為,竹串等の細かな道具を使用し,形が崩れないように掘り進めます。)
⇒発掘作業風景(全ての土を取り除いた状況です。この土坑には,3個体分の弥生土器が埋められていました。)
5月下旬
いよいよ佳境です。調査を終える前に,調査区の全景を写真撮影します。
⇒高所から俯瞰撮影するために,やぐらを設営します。
⇒ラジコンヘリコプターによる空中写真撮影風景(先ほどのやぐら撮影より更に高い位置から撮影するため,専門の業者に撮影してもらいます。)
⇒第1調査区完掘状況
発掘調査あれこれ~調査風景~
4月下旬
第2調査区包含層において,弥生土器が出土しました。
⇒弥生土器の破片が点在する出土状況
⇒第2調査区包含層出土状況の一部分を拡大(弥生土器の表面にあしらった刺突文が確認できる。)
⇒第2調査区包含層出土状況の一部分を拡大(弥生土器の口縁部が逆さまになった状態)
5月上旬
第1調査区SK3では,弥生土器が埋められた土坑を検出しました。
⇒発掘作業風景
⇒発掘作業風景(図面や写真撮影の為,竹串等の細かな道具を使用し,形が崩れないように掘り進めます。)
⇒発掘作業風景(全ての土を取り除いた状況です。この土坑には,3個体分の弥生土器が埋められていました。)
5月下旬
いよいよ佳境です。調査を終える前に,調査区の全景を写真撮影します。
⇒高所から俯瞰撮影するために,やぐらを設営します。
⇒ラジコンヘリコプターによる空中写真撮影風景(先ほどのやぐら撮影より更に高い位置から撮影するため,専門の業者に撮影してもらいます。)
⇒第1調査区完掘状況
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